テーマ5:平和の炎が立ち上がる -軍用地の跡地利用-

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1.福祉の村づくりと困難な跡地利用

読谷村は沖縄戦が終結していない時から軍事基地としてアメリカ軍に使用され、戦後も 収容所から家に帰ることは許されませんでした。戦後 95%の軍用地は復帰時点で73%となり、現在は45%になりました。長い年月の間、ねばり強い運動等で返還された軍用地は、その跡地の地籍が不明確なために、すぐに跡地を利用することはできませんでした。未確定地域の調査は想像をこえた苦難の連続でしたが、年次的に計画された地籍調査作業を関係者の努力と村民の絶大な協力で徐々に確定されました。返還軍用地の跡地利用と平和な村づくりのためのハード面や復帰後の村づくりの流れがわかります。

2.ボーローポイント射撃場飛行場一帯

解説文

○ 残波岬総合公園整備 読谷村を代表する景勝地の一つが残波岬です。東シナ海に点在する島々が望め、那覇や名護・恩納岳が眺められ、眼前には大海原が広がる絶景は訪れた人々の心を揺さ振ります。戦後ナイキ・ハーキュリーズの基地として使われていましたが、1974年返還され「読谷村総合基本構想」により「読谷村海岸保全利用計画」がたてられました。村民がくつろぎ楽しめる場所として整備され、1983年、野外活動施設「残波岬いこいの広場」として生まれ変わりました。マンタハウス、多目的グラウンド、バーベキューハウス、テニスコート、ローラースケート場、ゲートボール場等の施設があり、広場には「残波大獅子」が鎮座し、進貢船をイメージした展望台もあります。戦争により荒廃した大地が、平和な生活空間として憩いの場として甦ったのです。

○ ゴミ処理場(一般廃棄物最終処分場)整備 1971年、喜名のゴミ捨て場で火災が発生し大火になりました。このことで集中処理方式の導入が検討され事業計画が進められました。生活水準の向上や多様化にともない、ゴミの量の増大と質の多様化が著しくなり、地域環境の保全と地下水の汚染防止など対策を講じ、膨大な一般家庭からのゴミを衛生的かつ合理的に処理する施設としてゴミ焼却場を建設しました。

写真解説

3.ボーローポイント射爆場Aサイト(座喜味城跡一帯)

解説文

読谷村は段丘の地形をしています。南から北へだんだんと高くなり、その一番高いところに座喜味城跡があります。1420年ごろ、護佐丸(ごさまる)が築いたといわれています。護佐丸は中国・東南アジアとの交易を行い、進んで海外の文化・文物をとり入れていたようです。沖縄戦のとき、この地に日本軍が高射砲陣地を築いたのでアメリカ軍の猛攻をうけ壊滅的な打撃をうけました。戦後はアメリカ軍のレーダー基地として接収されていましたが、1974年本丸にあった基地は全面返還され座喜味城跡総合公園化の事業が本格的に動きはじめました。返還に先立ち読谷村では城跡指定地内用地の公有化・城壁周辺の伐採作業・遊歩道整備工事等が進められていましたが、本土復帰(72年)にともない、国の史跡として指定されたのです。2000年には世界遺産に認定され訪れる人々も増えています。近年では、歴史学習の場として定着する一方、伝統芸能や歌劇等のイベント、フォーラム等の利用が盛んとなり、村民の親しみが増すとともに、この城跡の今日的な利用方法が明らかになってきました。隣接して「歴史民俗資料館・美術館」があり、収蔵資料も豊富で縄文時代から戦前・戦後の暮しまで展示されています。

写真解説

4.読谷陸軍補助施設

解説文

〈公共公益施設整備事業等〉 1974年に読谷陸軍補助施設が返還されましたが、跡地の使用が可能になったのは20年を経てからです。それは地積確定が困難で集団和解にいたるのが遅れたためです。現在では、跡地利用計画を策定し、体系的、計画的な整備を進めています。また、当跡地を含む、瀬名波・長浜・宇座にわたる地域では集落地域整備事業が実施されています。この事業の前身は農村基盤総合整備事業で、農道・集落道路等を総合的に整備するものでしたが、近年では集落道整備・村道認定が具体化したことで、住宅の建設や建築確認が急増しています。これからの跡地利用の課題として、末接道敷地の解消、周辺を含む地区整備、土地利用の調和、環境・景観整備があげられています。

写真解説

5.波平陸軍補助施設

解説文

〈公共公益施設整備事業等〉 1974年に返還されたこのアメリカ軍施設には高射砲部隊が配置され、砲台や兵舎等が建設されていました。返還にともない、いち早く医療センターとしての跡地利用計画をたて、村民と一体となってその実現に努力しました。当時、読谷村は無医村で村民は嘉手納町や沖縄市の病院へ通院していました。村民の切実な要望として医療施設の整備は急務となっていました。76年度に用地を購入し、77年度で建設に着手、78年5月には診療を開始しました。また、隣接する地域には、沖縄県社会福祉事業団が主体となって「県立よみたん救護園」「県立都屋の里」がすでに建設されていて波平陸軍補助施設はこの「読谷村診療所」のオープンにより医療・福祉のメッカとなりました。さらに同施設内には、農林漁を営む家々の婦人および高齢者が共同学習・自主的交流・情報交換等を行い、生活改善・農産加工技術の学習等を目的とした農村婦人の家も建設され、健康増進・創作活動等の多目的な活動が展開されています。隣接する公園も含めて福祉ゾーンとしてこれからも充実した施設の建設と地域の発展が望まれています。

写真解説

6.トリイ通信施設(一部)

解説文

〈公共公益施設整備事業等〉

○ 古堅南小学校(1980年4月7日開校) 古堅南小学校敷地は、戦前の古堅尋常高等小学校ゆかりの地です。戦争により破壊された校舎が新しくコンクリートの近代的な建物になったのは81年のことです。開放後約1年間は古堅小学校内の余った校舎での学校生活でしたが、81年2月に移転し、40年ぶりに校庭には子供たちの歓声がもどったのです。近年は、宅地整備が進み住宅建設も増えて村外から多くの住民が移り住んでいます。それにともない児童生徒も急増、21世紀に向けての学校づくりをめざし、学級園・実習園を活かした土に親しむ教育や緑につつまれた学園づくりに力を入れています。

○ 比謝川沿岸整備事業(泊城公園整備事業) 比謝川は戦前まで、家畜や物資等を運ぶ船(山原船)が頻繁に往来し、読谷村をはじめ中頭郡における対外的な経済活動の窓口の一つと言える所でした。しかし、沖縄戦で比謝川河口はアメリカ軍の上陸地点となり、基地構築等で河口の集落渡具知などは戦前の姿は見る影もないほどに大きく変わってしまいました。また、近年は海の水質汚染や無秩序な海浜利用などによる汚れが目立ってきています。現在は昔の情景を取り戻すために「リーディングプロジェクト」を導入して海浜の自然型の整備や海浜利用秩序の創出を目指す取り組みが行なわれ、戦前の沖縄八景に数えられた場所は、泊城(とまいぐすく)公園として整備されています。

写真解説

7.嘉手納住宅地区(全)

解説文

〈公共公益施設整備事業等〉 古堅地区土地区画整理事業

この地域は、戦前は古堅の集落がありましたが、戦後アメリカ軍用地として接収されアメリカ空軍の家族用住宅地「嘉手納住宅地区」として使用されていました。1977年全域返還が実現し、居住地として整備することが決められました。戦後、過密居住を余儀なくされてきた古堅の人々の旧居住地であること、さらに近年において村外からの流入人口が多いことを考えあわせ、地主会を母体とする「古堅地区地主会」を結成し土地区画整理事業に取り組みました。軍用地の存在によってゆがめられていた市街地環境を本来の安全で快適な環境へ蘇生させるとともに、この地域の位置的条件を最大限に活かし、保全活用していくため、村と地主会は何度も意見交換を行い計画的な市街地整備のモデルケースとして位置付けました。現在では、道路・排水路工事等も整備され多くの住宅建設がすすみ、公園や村営団地も建設されています。

写真解説

8.読谷補助飛行場−1

解説文

〈公共公益施設整備事業等〉

○ 読谷村総合福祉センター この施設のある場所には、戦前国民学校が建っていました。日本軍が飛行場建設のため強制的に土地を接収した1943年ごろ、校舎は兵舎として使われました。返還後は総合福祉センターとして福祉活動の中心的施設となっています。村民の文化活動の発表の場であり、老人センター・研修センターとしてすべての年齢層が使用できます。村民が自ら築いたという親しみと誇りがもてるように村民手作りのレンガを建物に使いました。

○ 読谷村伝統工芸センター 琉球の大交易時代に東南アジアから伝わったといわれる読谷山花織は、独自の手法を取り入れながら発展・継承されてきましたが、明治の中ごろから衰退し途絶えていました。1964年関係者の努力が実り「幻の花織」が復活、76年に通産大臣指定の伝統工芸にも指定されました。伝統工芸を継承、発展させていくために、後継者の育成をはじめ、技術指導・販路開拓等、製品の研究開発を図ることを目的として伝統工芸センターが建設されました。

写真解説

9.読谷補助飛行場−2

解説文

○ 運動公園ゾーン

<スポーツ施設ゾーン>

スポーツは地域住民の健康の維持推進と心身のリフレッシュをもたらす重要な活動で、近年、健康意識の高揚や自由時間の増大などの社会変化にともない、スポーツに対する関心は高まっています。この地域には、運動広場・多目的広場・平和の森球場・勤労者体育センター・テニスコート等の公共施設があり、1988年に行なわれた海邦国体では少年男子ソフトボールの会場に使用されました。村民の願いに応えるためさらなるスポーツ施設の充実も検討されています。

<まつり広場>

村民運動広場をメイン会場に「よみたんまつり」が開催されます。読谷村の歴史・文化を総合的に発表する場として、赤犬子琉球古典音楽大演奏会・創作「進貢船」・残波大獅子太鼓等の新しい文化も生まれ、文化活動も大きく発展しその拠点となっています。よみたんまつりの開催は、読谷村が掲げる「人間性豊かな環境・文化村」を継承し、各集落の伝統芸能の復活を促すとともに、村民に自信とロマンを与え、読谷村の文化創造に貢献しています。

○ 行政地区

戦後、収容所生活を余儀なくされた村民が、読谷山建設隊を組織し、1946年に第一次として5千人の村民の受け入れをし、移動完了したのが48年でした。当初、村内の移動許可は波平・高志保の一部に限られていました。戦後行政は、「読谷村の美しい自然と豊かな伝統文化を保存継承しながら新たな創造を進める」べくスタートしました。95%が基地に占められるという厳しい中をたくましく生き、相互扶助の精神で地域を復興発展させてきましたが、その道のりは役場の敷地をおわれるなど、苦難の52年間でした。1997年4月、村民が長年夢みてきた村役場が自治の殿堂として村の中心に完成したのです。21世紀に向けた村づくりの拠点として、今後も村民と力を合わせ、平和の郷・読谷村を築いていきたいものです。

写真解説

10.嘉手納弾薬庫地区

解説文

〈公共公益施設事業等〉〈自然文化資源を活かした事業等〉

○ヤチムンの里

嘉手納弾薬庫地区内の読谷不発弾処理場が撤去・返還され、その跡地に「ヤチムンの里」が造られました。沖縄最大規模九連房の登窯の赤瓦屋根が松林の緑と調和し、沖縄独特の焼物文化を担うにふさわしい里が生まれました。近年では琉球ガラス工房が同地区内に造られ新たな産業振興の可能性が広がっています。

○新沖縄林業振興特別対策事業(苗畑)

地球的規模で森林など緑が減少し、緑地の重要性が世界的に叫ばれています。こうした社会状況の中で、読谷村では新沖縄林業振興特別対策事業を1991年から導入し、親志砂良原に緑化用苗畑を造成し、緑化推進対策の基盤整備を進めてきました。

○沖ハム総合食品(株)読谷工場

(株)沖縄ハムは、1981年に調理・惣菜・レトルト食品の加工場として読谷工場を設立し、社名も現在のものに変更しました。87年に沖縄黒糖工場が完成し着実に発展しています。また、民間第1号として、村民の雇用にも寄与しています。

写真解説

更新日:2025年12月22日