テーマ3:村民主権 -基地撤去の闘い-
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1.村民の思いと行政が一つとなって

読谷村では 「読谷村の主人公は読谷村民である」をかかげ、平和の郷をめざし基地撤去の運動をつづけています。読谷のすべての団体、役場、議会、地主会、自治労、教職員組合、青年会、婦人会、老人クラブ、区長会、農協、漁業組合、商工会などが結束して村民の命と財産を守るため力をあわせます。基地を撤去させ森と湖と緑豊かな読谷村をつくり 多くの人々が自然と集まってくる村づくりが進められています。行政と住民が共通の目標 に向かって“平和憲法の理念を実現する”沖縄戦の体験を忘れない“文化村づくりを実践する”ために「人間性豊かな環境・文化村」をめざして基地撤去の闘いをつづけています。人間としての権利を踏みにじられながらも、誇り高く、ねばり強く闘ってきた村民の姿が見えてきます。
2.米軍不発弾処理場撤去の戦い
解説文
読谷村の不発弾処理場は住民地域に近いうえに、大きな爆破音と大きい震動とともに無数の鉄の破片が飛散して人命はおびやかされ、家屋に損傷を与え、村民に不安と損害を与えていました。この実情を訴え読谷村はアメリカ軍当局にたいして改善するように再三要求していました。そうした中で毒ガス事故が発生し(1973年)、村民を恐怖のどん底に陥れたのです。生命と財産を守るため「毒ガス事件に対する抗議村民大会」を開催した村民の心は怒りに震え、数限りない基地被害に対する補償と不発弾処理場撤去の運動は幅広くなっていきました。しかし事故から数か月過ぎたころ、不発弾処理場を自衛隊がアメリカ軍と共同使用していくことが日米合同委員会で合意され村民に明らかになり、処理作業による砲弾の破片はふたたび周辺住民の上にふりつづけました。読谷村では、県基地渉外課・那覇防衛施設局・陸上自衛隊第一混成団特別不発弾処理班・沖縄総合事務局へ現場調査を求め、不発弾処理作業の中止が確約されました。しかし、75年、アメリカ軍は読谷村役場に不発弾処理場使用再開を通告してきました。村民の不満と憤りは強まり、不発弾処理場使用反対の声はさらに強まったのです。読谷村職員労働組合をはじめとする村内民主団体や村民200人は不発弾処理場入口に座り込んで、処理作業を断念させました。トラック1台で乗り込んできたアメリカ軍の兵士と一時緊迫状態がつづきましたが、アメリカ兵は現場から引き揚げたのです。読谷村と村民の粘り強い闘いは読谷不発弾処理場、集積所を閉鎖させ、78年同地が返還され処理場、集積所は撤去されました
写真解説
3.読谷飛行場米軍アンテナ基地建設反対の戦い
解説文
1976年7月、読谷飛行場内で農耕をしていた農夫からの通報で、飛行場内にアメリカ軍が戦略通信アンテナ工事に着手していたことが村に知らされました。村は工事の中止要請を行い、この工事が楚辺通信所(ハンザタワー)に関するもので「海軍のP3C対戦哨戒機からの受信用アンテナ建設工事」であることをアメリカ軍から伝えられました。読谷飛行場の使用目的に反するアンテナ基地建設にたいして、読谷村長、村議会議長、読谷飛行場用地所有権回復地主会長は建設計画撤回要請電報を防衛施設庁長官、同施設部長宛てに打電し、那覇防衛施設局、県知事、県議会議長、嘉手納航空隊内在沖海軍司令部工務部長などの関係機関に建設撤回の要請、決議文の手渡しなどを精力的におこないました。アンテナ基地建設場所として「読谷飛行場ほど条件のそろったところはない」と、工事をすすめるアメリカ軍とそれを容認する日本政府の態度に、要請行動に限界を感じた村と地主会はついに座込みの実力闘争を決意したのです。10月6日、座喜味・波平・楚辺・大木・伊良皆・喜名の各集落からぞくぞくと地主たちが読谷飛行場に集まり、「これ以上の基地を読谷村には造らせない」・「完全撤去するまでは座込みを続けていく」ことを固く決意し、工事の作業を中止させたのです。しかし、アメリカ軍や防衛施設局は工事を断念するどころか、警察権力を借りてでもアンテナ基地を建設する構えにでてきたのです。地主会が33年余のあいだ訴えつづけた「所有権を返せ」の血の叫びまでも無残に押しつぶされそうな状態でした。権力によって村民の意志が圧殺され、基地反対闘争が挫折することを憂慮した村内の民主団体は「読谷飛行場用地所有権回復支援共闘会議」を結成、村内の婦人会・青年会など政治色のない広範な村民を結集しました。座込み闘争が18日目の10月23日「読谷飛行場内米軍アンテナ設置反対村民大会」が開催されました。横なぐりの雨のなか、参加者は雨ガッパ、長靴に身を固め「アンテナ設置断じて許さんぞ」「村民総結集してアンテナ建設を即時中止させよう」と村民無視のアメリカ軍のやりかたに激しい怒りをぶつけ、「反戦平和をめざし・基地の拡大強化を阻止・所有権の回復をかちとろう」など、三つのスローガンを満場一致で採択しました。その上空には時折アメリカ軍のヘリコプターが飛びかい大会の状況を偵察していましたが、降りしきる雨のなか大会参加者はたじろぎもしないでこぶしを空にむかって振り上げたのです。村民の団結力で工事は中断していましたが、それでも那覇防衛施設局は工事再開を目論み、阻止闘争に対し機動隊の導入を要請していました。村民は県内の民主団体に支援を要請し体制を拡大、山内徳信村長(当時)は直接アメリカ大統領に直訴しました。カーター大統領への直訴状は県内外のマスコミ紙上に大きく取り上げられ、外交問題にまで発展しかねない大きな問題となりました。
写真解説
4.読谷補助飛行場 −滑走路修復訓練反対の戦い−
解説文
読谷補助飛行場でのアメリカ軍パラシュート降下演習が、村民の声を無視して続けられているなか、1986年10月、「滑走路緊急補修訓練鋭い剣」という新たな演習を在沖米海兵隊と嘉手納空軍が合同で実施することを村に通告してきました。演習中止を求めた村の声を無視して、アメリカ軍は早朝から飛行場内にトラックやクレーン車、食糧、水タンク、簡易トイレなどの野営に必要な物資を運び込み訓練準備に取り掛かりました。村では、議会や村職労、区長会、婦人会、老人会、地主会など15団体で構成する実行委員会を結成し、現場にテント小屋を設営して徹夜の監視体制にはいりました。20日の朝、アメリカ軍が大型トラクター2台を導入して本格的に訓練を強行してきたため、怒った村民200人はトラクターの前に立ちはだかり阻止行動を展開し訓練をストップさせました。しかし、アメリカ軍は翌21日から30日まで嘉手納署県警機動隊に守られながら訓練を強行したのです。その間、演習阻止実行委員会では24時間の泊込み体制でアメリカ軍の演習を監視しつづけたのです。 2年後に再開された「滑走路緊急修復訓練」は定期的に行われ、年25〜30回実施されていました、前回の施設部隊に加え「爆発物処理隊」(EOD)がマスクや科学防護服を着け、核有事を想定した大掛りなNBC(核・生物・化学)訓練を実施するというもので、アメリカ軍は3月16日から訓練の準備をはじめたました。村民は猛反対し、那覇防衛施設局に対して抗議と訓練中止を求めましたが、施設局は訓練の容認の態度に終始しました。村民は「もはや我慢の限界、体を張ってでも訓練を阻止する」と決意を固め、滑走路を占領してアメリカ軍の前面にテントを配置し実力闘争に踏み込み、頑として動きませんでした。「米軍の演習激化に抗議し、演習場の即時撤去並びに読谷飛行場用地の返還を求める村民総決起大会」が開かれ、3000人の村民が参加し村民ぐるみで闘いぬくことを誓いました。「一人のアメリカ兵も演習場に入れない。体を張ってでも阻止する」という村民ぐるみの固い意志が、アメリカ軍の演習強行を断念させたのです。
写真解説
5.読谷補助飛行場 −パラシュート降下訓練反対の戦い−1−
解説文
パラシュート降下訓練による事故は、さまざまな基地被害となって読谷村民の生命・財産を脅かし続けてきました。過去の悲惨な体験が読谷村民を基地反対闘争にふるいたたせ、村ぐるみの反対闘争になっていきました。村民はアメリカ軍の横暴極まる演習事故対策にたいしてメ落下傘演習事故防止対策協議会モ(村議会・各区長・各学校長・教育委員会・村青年会・村婦人会)を結成し、落下傘事故にたいし協議会で抗議文を採択し、これを高等弁務官・空軍司令官・民政府に手渡し、「読谷村民の生命が絶えず危険にさらされている。読谷飛行場での一切の降下演習をやめて貰いたい」と直訴しました。 1965年の「隆子ちゃん圧殺事故」で「村民に迷惑をかけない」「万全な事故防止策を講じる」とアメリカ軍は固く約束しておきながら、翌年、演習中のアメリカ軍機から投下された角材(重さ8.5kg)が民家に落下しました。そのときの村民のショックは大きく、日夜演習の恐怖におののいて生命と財産を脅かされる暮らしから開放されるために、降下演習の一切の中止を要求していくという声が強くなったのです。
写真解説
6.読谷補助飛行場 −パラシュート降下訓練反対の戦い−2−
解説文
1979年11月、アメリカ軍の夜間パラシュート演習が実施される旨、那覇防衛施設局から読谷村に電話連絡がはいりました。アメリカ軍は度重なる事故を引き起こしているにもかかわらず無神経にも再度夜間演習を実施すること、しかもパラシュート落下事故にたいし「測定地点に落下したのに、誰かが民間地域へ持ち去った」と発表して、読谷村民を泥棒あつかいし責任転嫁する態度に終止しました。このことは村民感情に「火に油をそそぐ」結果になりました。読谷飛行場の演習場内に1000名の村民が結集して「降下演習中止並びに演習場即時撤去を要求する村民総決起大会」を開催しました。アメリカ軍は演習を実施することなく中止を表明しましたが、再び演習訓練を実施したので村民は、監視体制のため現地に集まりました。集まった村民は、アメリカ軍が大量に地上兵を動員し、盾とこん棒を保持しヘルメット、防弾チッキで身を固め、短銃と銃剣を装備するという物々しい重装備をしていることに驚いたのです。しかも、演習場内に進入するすべての道路に5寸クギを打ち込んだ角材を設置し、全道路を封鎖していたのです。 81年、アメリカ軍はまた危険な夜間演習を強行しました。「夜間演習阻止」の抗議行動に立ち上がった村民500人は演習場内の演習ターゲット付近の滑走路上に100台余の車両を動員し横一直線に並べました。これに対しアメリカ軍は警備人を最大動員し、防弾チョッキに身を包み短銃を携帯してものものしい装備で警戒網を敷き、県警は機動隊3個小隊を配置しました。村民とアメリカ軍・機動隊が対峙し緊迫したなか、午後8時演習機が飛来してきたのです。阻止団は車に飛込み、100台余の車のライトを一斉に点滅させ、クラクションを鳴らしはじめました。殺気だつなかアメリカ軍の夜間演習は2回降下しただけで中止となりました。この後も夜間演習がおこなわれ事故もおきていますが、読谷村民の粘り強いユニークな演習阻止行動は続けられたのです。
写真解説
7.グリーンベレー配備反対の闘い
解説文
読谷村は、楚辺にあるアメリカ軍トリイステーション(トリイ通信施設)から発生する基地問題を抱えていました。海岸への汚物たれ流し・楚辺兼久ビーチの拡張・米陸軍特殊部隊配備・米兵の発砲事件・農耕地立ち退きなどの問題があり、村民の生命と財産を脅かし続けていました。それに加えて、1984年3月には「トリイ通信施設にアメリカ陸軍特殊作戦部隊(グリーンベレー)を配備」することをアメリカ軍が発表しました。反対する村民を無視し隠密に配備計画が進められ、グリーンベレー(悪魔の部隊といわれる)の再配備は強行され、9月完了していました。「これ以上の基地強化は絶対許さない」と固い決意の村長をはじめ、4千人の村民が結集して「米軍特殊作戦部隊の強行配備に抗議し撤退を要求する村民総決起大会」を開き、トリイ通信施設ゲート前までデモ行進し、怒りの拳を突き上げたのです。グリーンベレーは小規模局地紛争やテロリズムに対抗する特殊作戦部隊で一個大隊250〜300人以上が配備され紛争地帯での破壊工作を任務としていることが明らかになっています。村民の抗議と撤退の要求にもかかわらず、現在もトリイ通信施設にグリーンベレーは配備されています。
写真解説
8.新たな基地建設反対の闘い
解説文
「普天間基地返還」の報道は、県民にとつて久びさのうれしいニュースでした。しかし、沖縄特別行動委員会(SACO)で合意された普天間基地返還に伴い、嘉手納弾薬庫内にヘリポートを新設することが検討されていたのです。読谷村議会は、意見書で「ヘリ部隊の移駐によって村民はまたしても安住の地を失う。これ以上の基地機能強化と過酷な犠牲は容認できるものではない」とし日米両政府に対し、「移設反対」は村民の総意であることを表明しました。恩納村も読谷村と同様の提起をし、ヘリポート建設に「村民挙げて反対している」と主張しました。嘉手納弾薬庫地区の国道58号西側部分は1974年の日米安保協議委員会で返還合意されていました。そこに滑走路付きのヘリポートを建設するという問題に地元住民は不安を募らせ怒りの思いをこめて総決起集会を開きました。「米軍基地『たらい回し』を糾弾」して5千人の読谷村民が集まり、基地移設反対の意志を強く表明しました。




















