テーマ2:基地被害 -終わらない戦後-
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1.恐怖と悲しみから立ち上がって

戦後も読谷村民は、さまざまな基地被害を受けながら暮らしてきました。読谷補助飛行 場におけるパラシュート演習による事件・事故は数限りないほどおきています。二人の幼い命を奪い、畑を踏み荒らし、鉄の固まりが住宅の屋根や住宅地に落下するなど、住民た ちは恐怖の日々を過ごしました。不発弾処理場からは鉄の破片が落下してきたり、毒ガスが漏れたりして村民に被害と恐怖を与えました。軍隊は破壊と殺戮のために訓練をしているからなのか、読谷村民への配慮など少しも感じられない軍隊と隣あわせの生活を余儀な くされてきました。
2.アメリカ軍不発弾処理場
解説文
沖縄戦は、「鉄の暴風」といわれたほどすさまじい数の砲弾が飛びかいました。 戦後も無数の不発弾が残され、被害を受けた人たちも少なくありませんでした。 アメリカ軍は不発弾処理のために読谷村長浜、座喜味、親志、恩納村宇加地にまたがり処理場を造りました。 そこは国道・新興住宅地・ゴルフ場などに隣接していました。 処理作業が最も激化した1963・4年ごろには頻繁に鉄の破片が落下し、 特に座喜味・長浜集落の人々は不安の中での生活を強いられました。 70年には農耕中の農夫の足元に破片が落下、 71年には座喜味の民家の屋根に400gの砲弾の破片が落下し 瓦3枚をぶちぬき柱につき刺さるという事件などが発生しました。 それだけでなく、復帰直前(71年)に毒ガス撤去が行なわれましたが、 完全撤去されたはずの毒ガス事故が73年に発生したのです。 アメリカ軍の不発弾処理作業の不手際で流出した毒ガスは、 催涙ガスの一種でノドや目に痛みが走り、頭が痛みだすという無色、無臭の毒ガスでした。 北東の強い風にのって座喜味集落を瞬時に汚染し、読谷飛行場を吹き抜け、 読谷高校まで広がり、村民を恐怖のどん底に陥れました。 この事故から数か月すぎたころ、読谷の不発弾処理場を自衛隊が、 アメリカ軍と共同使用していくことが、 73年4月の日米合同委員会で合意されたことが村民に明らかにされ、 読谷村民の感情を大きく刺激し強い反発を招きました。 74年には不発弾処理作業による砲弾の破片が処理場周辺に飛散し、 鋭い破片が雨のように周辺住民の上にふり続け、 住民たちは恐怖の日々を過ごさなければなりませんでした。
写真解説
3.読谷飛行場 −ついに少女が犠牲に−
解説文
戦前、国家総動員法に基づいて旧日本軍が農民たちから強制的に取り上げた北飛行場の土地は、 戦後アメリカ軍によって占拠され、朝鮮戦争のころまで飛行場として使用されました。 その後はパラシュート降下演習場となり、復帰後も使用されて現在に至っています。 この間、アメリカ軍パラシュート演習による事件・事故は絶え間なくおこり 読谷村民は空からの落下物に恐怖の日々を過ごしてきたのです。 1950年、飛行機の補助燃料タンクが落下して、 当時3歳だった幼児の片足が切断され全身打撲などで死亡しました。 その後もアメリカ軍の貨物が落下する事故がつづき、 地域住民は不安と恐怖の日常でしたが、 64年には約4トンのコンクリートのかたまりやジープ、武器などが 座喜味・親志・喜名集落の数十ヶ所に落下し大きな損害を与えました。 その翌年、村民の不安は現実のものとなってしまいました。 自宅の庭先で遊んでいた棚原隆子ちゃん(当時小5)が 空から落下してきたトレーラーに押しつぶされ殺されたのです。 村民の基地撤去の訴えは命がけでしたが、 それでもパラシュートやアメリカ兵が落下する事故などがくりかえされ、 家屋の損傷、農地の被害はつづき、学校も通学路も安全な場所ではありませんでした。





