テーマ1:返還された軍用地
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1.村民の思いは平和な村づくりへ

1945年4月1日、沖縄戦でアメリカ軍の上陸地となった読谷村は村土の95%が軍用地として強制的に接収されました。飛行場や射撃場、通信基地などが建設され村民たちの住める土地は僅かでした。その上、基地からの被害は村民を苦しめつづけ地獄の戦場から生き延びた人たちにとって、平和な村づくりへの思いは深くなっていきました。
1972年の復帰時には、アメリカ軍基地の割合は73%でしたが、現在(2002年)では45%になっています。村民の平和への思いは行動にあらわれ事件・事故が起きるたびに抗議を繰り返し、基地撤去を叫びつづけました。読谷村はお互いの立場を理解し合い、話し合いで解決をはかっていく姿勢をつらぬき、粘り強く、ユニークな発想で交渉をしてきたのです。ここではボーローポイント射撃場など8が所の返還基地をとりあげました。
2.ボーローポイント射撃場
解説文
読谷村の西側一帯は広大で平坦な農耕地がつづいています。戦前は宇座、儀間と国吉屋取(ヤードイ)の集落があり、ほとんどは農耕地として利用されていました。1945年4月1日、読谷村に上陸したアメリカ軍は4月ごろには、ほぼ村の全域を占領下においていまた。村の西側地域には飛行場(ボーロー飛行場と称された)を建設し、本土侵攻の前進基地として使用しました。その後嘉手納飛行場が拡張整備されたことにより、ボーロー飛行場は戦車の砲撃演習場となり、残波地域は戦闘機による射撃や銃撃演習地となりました。1949年には、この地域の東北部瀬名波にアメリカ国防省所管の情報機関「FBIS」(海外情報局)が設置され、アジア各国の公共放送・各種報道機関の通信を傍受し、分析して軍事目的に利用したといわれています。さらに57年にはFBIS地域に隣接した瀬名波と座喜味にナイキ基地を新設し、59年には残波地域にナイキ・ハーキュリーズ基地を建設しました。アメリカの軍事支配下(復帰前)にもかかわらず、航空自衛隊の実射訓練や研修などにも使用されていました。この地域が返還されたのは、復帰後のことです。74〜77年の間に、7回にわたり、全施設面積(4,816平方km)の83%が返還されました。この地域は第15回安保協議委員会において返還合意され、その後、難渋をきわめた地籍の明確化事業を多くの地主、関係者の努力と協力により終了し跡地利用にむけて動きだしました。
写真解説
3.ボーローポイント射撃場Aサイト(座喜味城一帯)
解説文
現在世界遺産の一つに認定された座喜味城は15世紀の前半ごろ、中国や東南アジアと交易をしていたといわれています。美しい曲線の城壁は、石工技術の確かさを示しています。この地は太平洋戦争時の沖縄戦で日本軍の高射砲が築かれていたこともあり、アメリカ軍の猛攻撃をうけ破壊的な打撃をうけました。戦後は占領したアメリカ軍がレーダー基地として接収し使用していました。1971年5月に出された「読谷村経済開発構想」では、座喜味城を中心とするその周辺の環境整備事業計画がたてられ、それに基づき城跡指定地内用地の公有化、城壁周辺の伐採作業、遊歩道整備工事などがすすめられました。1972年5月15日、沖縄の本土復帰にともない国の史跡として指定されました。雑草が生い茂り荒廃したまま放置されていた城跡は国庫補助により環境整備が実施され、アメリカ軍の基地も74年に全面返還され、座喜味城跡の総合公園化の事業は本格化していきました。
写真解説
4.読谷村陸軍補助施設
解説文
戦前、この地域は読谷村高志保と長浜の中間部の丘陵に位置し接収前は大半が農耕地として利用されていました。1960年2月、アメリカ軍はこの地域がミサイル基地建設用地としてすぐれているとして、この地域を新たに接収しました。ホーク・ミサイルの沖縄配備計画にもとづき、ホーク・ミサイルの発射台とその関連施設を建設したのです。この基地建設によって高志保と長浜を結ぶ道路の建設を余儀なくされ地域住民は多大な損害をこうむりました。この施設は、1969年ごろから事実上遊休化していて、後に第1特殊部隊の宿舎として使用されていました。沖縄返還協定基地リストA表に基づき、この施設は復帰後もひきつづきアメリカ軍に使用されることになりましたが、74年1月の第15回安保協議委員会において返還について検討する施設として合意され、同年10月に返還されました。
写真解説
5.波平陸軍補助施設
解説文
読谷村の中心から西方の東シナ海に面して波平の集落は広がっています。戦前は一部に原野がある程度で、ほとんどが耕地として利用されていました。アメリカ軍に接収された当初は軍需物資の集積所として使用されていましたが、その後、高射砲部隊が配置され砲台や兵舎が建設されました。また、復帰前まで都屋高射砲隊または、波平サイトと称され、沖縄返還協定基地リストA表に「波平陸軍補助施設」として復帰後もひきつづきアメリカ軍に提供されました。この施設については、74年1月の第15回安保協議委員会において、検討後返還される施設として合意され、在沖アメリカ軍の大幅な整理統合の一環として9ヵ月後の10月31日に全面返還されました。
写真解説
6.トリイ通信施設
解説文
読谷村の南西方の東シナ海および比謝川沿いに広がる平坦地は、戦前旧楚辺、渡具知の集落と古堅の人家が点在していて、ほとんどは農耕地でした。渡具知港付近はアメリカ軍の上陸地点となり、1945年4月1日にはアメリカ軍の占領下におかれました。アメリカ軍は直ちに通信施設と膨大な軍需物資の集積や車両重機整理部隊を配備し、戦争が終わってもこの地域は帰村が許されませんでした。渡具知の地域に移動が許されたのは、50年になってからです。しかし、朝鮮戦争で沖縄の基地の恒久化が図られると、集落を強制的に立退かせてアメリカ軍の通信施設を建設し渡具知・古堅地域を「ストラトカム受信施設」、楚辺地域を「トリイステーション」と称し、アメリカ軍総合情報センターとして四軍に使用され通信情報の収集分析等が行なわれました。復帰後、「トリイ通信施設」としてアメリカ軍に提供されていましたが、73年ストラトカム受信基地部分が返還され、現在は旧トリイステーション部分(1,931平方km)が残っています。これは軍事通信衛星の採用によるアメリカ軍基地の再編統合の一環で一方的におこなわれたもので、突然返還されました。
写真解説
7.嘉手納住宅地区 −安全で快適な環境への蘇生−
解説文
読谷村の古堅と比謝川の間に位置し、古堅の集落や小学校があり、その周辺は畜産、疏菜園芸等を主体として利用されていました。戦後、アメリカ軍が占領を継続するため、アメリカ軍将校の兵舎として使用、その後返還されるまで空軍の家族住宅として使用されました。この地域は前後2回にわたり全施設が返還されましたが、77年5月14日付返還の1,255平方kmは公用地法の期限切れに伴うものであり、同年11月30日付の103平方km返還は第15回安保協議委員会において移設設置返還する旨合意されました。76年嘉手納飛行場内に新たな住宅地が建設され、そこへの移転に伴う返還でありました。
写真解説
8.読谷補助飛行場
解説文
読谷村のほぼ中央に位置し、接収前は大部分が農地で喜名・伊良皆・座喜味・楚辺等の集落が点在していました。1943年の夏、旧日本軍がこの地域を接収して、北飛行場を建設し、その周囲に弾薬の集積所・兵舎・給油施設等も設置しました。45年4月、アメリカ軍は上陸と同時にこの地域を占領し、本土侵攻のための前進基地として飛行場を拡張強化しました。46年には各地で収容生活をしていた村民に帰村許可が出されましたが、この地域は立入禁止区域となっていました。それ以来この飛行場は、アメリカ軍の離着陸演習・落下傘訓練等につかわれ、本土復帰後も空軍管理下で四軍のパラシュート人員降下・物資投下訓練等の空挺訓練に使用されていました。この飛行場は2000mの滑走路と約1500mのエプロン、貯油タンク、アメリカ陸軍憲兵司令部の保安部警備事務所がありました。74年にはP3C対戦哨戒機の那覇飛行場から嘉手納飛行場への移駐にともなう通信施設の建設工事がはじめられましたが、村長をはじめとする地元読谷村民の工事現場座込み等の反対運動により工事は白紙撤回になりました。この飛行場での演習や訓練による住民地区へのさまざまな被害や作物被害の発生は絶え間なくおこり、トレーラーが空から落下して人命を奪う事件までおきていました。読谷村の中央部でしかも広大な平坦地であるため、農業振興の隘路になるとともに、工業開発地区の指定も受けていながら、軍用地が返還されないため、地域の振興開発上の大きな障害となっていました。戦前、村も旧地主も土地代を受け取らず、戦争が終われば地主に返すという約束で強制接収に応じたのだから、元の地主に返すべきであるとして、「読谷飛行場用地所有権回復地主会」を結成して、返還運動を行なっています。
写真解説
9.嘉手納弾薬庫地区
解説文
弾薬庫は読谷村・恩納村・石川市・沖縄市・嘉手納町の6市町村にまたがる広大な面積を占めています。戦前は山林・原野および田畑が主でしたが、一部に集落があり当時読谷村の親志・牧原・長田・喜名・比謝・大湾および嘉手納町久得の開拓地となっていました。アメリカ軍の沖縄占領と同時に使用開始され、当初は嘉手納飛行場に隣接する地域に嘉手納弾薬庫、比謝川サイト、波平弾薬庫が構築され、その後読谷合同弾薬処理場、陸軍サービス弾薬庫、知花弾薬庫、嘉手納タカン弾薬庫、嘉手納ボルタック弾薬庫および東恩納弾薬庫がつぎつぎと構築され、施設の拡張、機能強化が図られました。沖縄返還に際し締結された返還協定基地リストA表でこれらの9施設は、嘉手納弾薬庫地区として統合され現在に至っています。この施設は、極東最大のアメリカ空軍基地といわれる嘉手納飛行場と隣接し、空軍・陸軍および海兵隊の3軍が毒ガス等特殊兵器の貯蔵庫および極東地域への弾薬類の総合補給基地として使用し、在沖アメリカ軍基地の中でも極めて重要な役割を担っています。復帰前まで全く返還されず、復帰後もわずか1%にも満たない部分(山間地など)がこまぎれ返還されただけです。読谷村は国道改修工事に伴う部分と不発弾処理場が返還されましたが村民の粘り強い闘いがあったからです。























