テーマ3:行政文書から見た村づくり

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1.ふみにじられた人権 -軍事占領下の沖縄-

読谷村の戦後はアメリカ軍基地の返還の闘いでした。戦後すぐに 95%を基地に接収され 自分達の村に帰れない村民は、胡差 (現在の沖縄市内) に仮役所を設置し、職員は郷土の復興に励むことを誓い合いました。村長は一

日も早い帰村許可を求め当時の民政府に請願書を提出しました。1946年の8月にようやく帰村が許可され復興への第一歩をしるしましたが、すぐに移動中止の命令が出される等アメリカ軍の都合で移動が制限される厳しいものでした。その様子を伝える貴重な文書の一部が読谷村に残されています。その文書には手書きのものもあり、復興に向けての意気込みや切実な願いがこめられています。それに対し、アメリカ軍側の文書は強権な態度があらわれていて、「軍事占領下の沖縄」の姿が現れています。

2.村外に設けられた仮役所

解説文

1945年の4月1日アメリカ軍が沖縄本島に上陸し、上陸地点となった読谷村では激しい砲爆撃のため家は焼かれ、多くの人が村外に避難しました。戦が終わり生き残った人々は自分達の村へと戻ろうとしましたが、村のほとんどがアメリカ軍の施設に接収され、立ち入ることができなくなっていました。そのような中、1946年4月知花英康氏が初代の村長に任命され、読谷山村仮役所が胡差(現在の沖縄市)に設置されました。そこで4月30日に沖縄民政府知事に対し、村民の村への復帰を要請しました。それは「沖縄各地の市町村が旧地に復帰し復興に励んでいるのに、読谷村のみ帰村できない状況を述べ、その理由とされている、“受け入れ地区の隊長は海軍、駐留軍は陸軍なので交渉が困難、爆発物埋蔵のため危険”について“労をおしまず交渉する、爆発物は取り除く”などのことをすればいい。アメリカ軍が駐留しているため帰村が不可能ならば、読谷に近い越来・美里の一地域にすまわせてはどうか。それすらもかなわぬなら放置されている村民は精神・物質面ともに生活苦が増大するのみです。このような状況では村長の任命も無意味であり、沖縄の政治上又人道上もいいことではないと憂慮しています。多大な犠牲を払った読谷村民の状況を考慮し、一日も早く移動促進できるようにお願いします」という切実なものでした。要請書を送ると同時に各地に散らばる村民と連絡をとり、帰村の準備を整えました。 当時、村内で焼け残った家屋を近くの収容所の人たちが壊して持ち去ったり、畑に残る芋などの農作物を荒らしたりしたため、それを保護するため仮役所の最初の仕事は胡差と石川から交代で監視員を出すことでした。仮役所は12月には村名を読谷山村から読谷村に変更しました。

写真解説

3.読谷山村建設隊 −復興の第一歩−

解説文

飛行場をはじめアメリカ軍の施設が多かったため、村民の復帰が許されなかった読谷村でしたが、村民の切なる訴えと、沖縄民政府当局の尽力で、1946年8月にようやく波平と高志保の一部が解放されました。村長は早速600人の「読谷山村建設隊」を編成し、郷土の再建に取り組みました。村の復興のため勢いこんでやってきた建設隊でしたが、村の状況は想像以上に厳しく、見渡す限りアメリカ軍施設が広がり、戦前の面影は全くありませんでした。木は切り倒され、屋敷の石垣は壊され、すすきや雑草がおい茂り、山羊や牛馬の骨などが放置されるなど全くの廃虚と化していて、何から手をつけていいかわからない状況でした。それでも建設隊の人たちは「協力して村再建に挺身し、理想郷を建設する」ことを誓い合い、まず、戦災をまぬがれた家を修理して宿舎にあて、復興の作業をすすめていきました。散乱している廃物をかたづけ、規格住宅を建設し、埋められた井戸を掘り返したり、便所をつくったりして生活の基盤を整えていきました。また、それを支えるために、野生のイモや野菜を採ってきて食糧にあてるなど再建の作業は秩序正しく進んでいきました。ところが、8月31日にアメリカ軍が突然建設中止の命令を出し、一両日中に立ち退くように命じたため、建設隊は村内から引き上げました。9月11日には中止命令が解かれると同時に住居許可地域も広げられました。9月16日には700人に増えた建設隊員は再び、村再建の仕事にとりかかりました。

写真解説

4.ムラの移動 −村民の帰村−

解説文

1945年8月15日戦争が終わり、各地の収容所にいた人々がそれぞれの郷里に帰りはじめました。 しかし、村のほとんどをアメリカ軍施設が占めていた読谷村では自由に帰村することができませんでした。1946年の8月になってようやく先遣隊として「読谷山建設隊」が故郷の村に入り、復興を始めました。その後、居住許可地域が広げられ、5次にわたる移動で、1947年の11月には1万4千人の村人が故郷の村へ帰ることができました。しかし、ほとんどの土地がアメリカ軍の施設として使用されていたため、旧集落(字)へ帰れなかったり、他の地域への集団移転を強要される人たちもいました。また、楚辺や渡具知のように、一旦元の集落に戻った後、再びアメリカ軍に土地を接収される所もありました。現在でも字喜名、楚辺、牧原、親志などは旧集落が基地として使用されているため旧集落に復帰できずにいます。

写真解説

更新日:2026年03月26日