テーマ2:村民の戦後生活
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1.軍政下の苦しみと村民たち -生命ふくらませて-
2.艦砲の喰え残さー −生き残った人々の暮らし−
解説文
アメリカ軍が上陸してすぐに、捕虜になった人々は各地に設置された「収容所」に送り込まれました。荒れ狂う「鉄の暴風」をくぐり抜け、家族や友人を亡くし、うちひしがれた沖縄の人々にとっては、収容所生活も安堵としたものではありませんでした。雨露をしのぐだけのテント小屋に押し込められ、地面に枯れ葉をしいただけの収容所での暮らしは、わずかな食糧で毎日を暮らさなければならず、栄養失調やマラリアなどの病気などで亡くなる人も多かったのです。難民収容所にいた人々は、1945年10月ごろから徐々にそれぞれのふるさとへ帰ることが許されましたが、読谷村には飛行場をはじめとするアメリカ軍施設が多かったため、帰村がおくれました。ほとんどの集落が軍用地にとられていたため、やむをえず他の地域へ移り住み、村の再建に取り組みました。
写真解説
3.ジュラルミンの時代
解説文
アメリカ軍の上陸地となった読谷村では、激しい砲撃で、家を焼かれ、農具や衣服などの生活必需品も失いました。人々は生活のため知恵を絞り、物の無い時代を生き抜いてきました。村内には日本軍の飛行場があったため、破壊された飛行機の残骸が残っていました。又、座喜味には戦争の残骸捨て場があり、嘉手納の飛行場からも運ばれてきていました。その飛行機の資材を利用して、ハガマ(炊飯用の釜)、アイロン、洗面器、香炉、きゅうす、ヤカン等のジュラルミンを利用した製品を作っていました。1946〜49年頃のわずか3〜4年の間で、最盛期には村内に7つの工場ができて、その製品は広く県下に出回り戦後第一の産業と言えるほど盛況を極めました。しかし、材料となる飛行機の残骸が取り尽くされ、次第に衰えていきました。
写真解説
4.青空教室 −読谷村の戦後教育−
解説文
戦争のために沖縄本島北部に避難していた読谷村の人々は、終戦後、村の全域が立ち入り禁止になっていたため帰村できず、各地の収容所に収容されていました。収容所内では、親を亡くした子供たちの心がすさんでいたり、砲弾の下を逃げまどい戦禍を生きのびた子供たちの傷ついた心をいやさなければと、学校も開設されるようになりました。しかし、戦争で全てを失ったため、校舎もなく、教室は大木の木陰等を利用した青空教室や軍から払い下げられた古いテントや古い木材で日陰を作った教室でした。教科書はおろか黒板、鉛筆ノートなど何も無く、ありあわせの板に墨を塗って作った黒板を使い、地面に砂文字を書いて授業を行っていました。音楽の時間は海辺で歌を唄っていました。1946年の8月に波平・高志保区に居住が許可され、村民の移動が始まり、12月には読谷初等学校が開校し、読谷村における戦後教育が始まりました。
写真解説
5.八重山移民 −土地を追われた人々−
解説文
戦後、村の全域がアメリカ軍の基地に接収され、各地の収容所で暮らしていた読谷村の人々でしたが、1946年の8月に帰村が許され、徐々に元の集落へと帰り初め、47年の11月にはほとんどの村民が再び郷里に定住しました。しかし、楚辺や渡具知などの集落では1952年に基地建設のためにアメリカ軍に土地を接収され強制的に立ち退かされました。家も畑も取り上げられ、新しい土地に移った住民は食べるものにもことかくほどの状態でした。こうした混乱の中、楚辺では「八重山に行けば土地がもらえる。」という情報をもとに八重山開拓移民が送りだされました。8月22日に読谷村の渡具知港を出発し、24日に石垣島の北部にある富野の海岸に着き、道路も桟橋も無い入植地での生活が始まりました。島での生活は、4・5年の間は山から木を切ってきて作った掘建て小屋(テント)で寝泊まりするなど厳しいものでした。入植当時は何も無い原っぱに投げ出されたかっこうで、割り当てられた土地を共同で開墾していきました。開墾地は食糧も少なく、重労働で体力を消耗した住民に風土病のマラリアがおそいかかり、多くの犠牲者がでました。台風やイノシシ、害虫の被害など多くの困難な状況がありましたが、移民根性でそれらを吹き飛ばし、陸稲・パイン・バナナ・サトウキビなどを栽培しながら米原の集落を作り上げていきました。











