テーマ1:復興にむけた新たな歩み
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1.小さな村は大きな苦しみをのりこえて

1945年の4月1日沖縄本島中部の北谷から読谷の海岸にかけてアメリカ軍が上陸しました。 アメリカ軍は上陸後すぐに読谷村にあった日本軍の北飛行場を占領し、 日本本土攻撃のための足掛かりとしての基地建設を始め、その後村の全域を占領し、基地化していきました。
読谷村の人々は戦後も各地の収容所へと集められ、自分達の村へ帰ることができませんでした。村民達は一日も早く自分達の村へ帰れるようにと願い、仮役所を設置し帰村の準備を整えました。粘り強い嘆願の末、1946年の8月には一部の地域に帰村が許され
「読谷山建設隊」が郷土の復興のためにのりこみました。しかし、いったん帰村が許されたもののアメリカ軍の都合で移動させられるなど苦難の道のりでした。1972年沖縄は日本に復帰しましたが、基地は残され、読谷村民の基地撤去のための闘いは今も続いています。
2.村土の95%が米軍占領地
解説文
1945年3月下旬、約3ヶ月にわたる沖縄戦が始まりました。4月1日沖縄本島西海岸の読谷村・北谷村からアメリカ軍が上陸、読谷村全域は占領地と化し、戦争が終わっても村民は自分達の村へ帰ることができませんでした。アメリカ軍が、村内にあった日本軍の北飛行場を拡張・整備し、本土爆撃や東アジア戦略の拠点として基地化していったからです。その後、住民の嘆願等により、村民が初めて帰村を許可されたのは1946年8月のことでした。「郷土読谷ノ建設ニ挺身」するために結成された「読谷山村建設隊」は、理想郷・読谷の建設を目指し、最初に居住が許可された波平、高志保の一部地域(村土の5%)に入り、村民の帰村準備を始めました。同年11月20日、第一次移動の約5千人の村民が故郷読谷の地を踏みました。
写真解説
3.切り離された沖縄 −講和条約発効時(1952年)−
解説文
対日講和条約(サンフランシスコ講和条約)は、1951年9月8日にサンフランシスコで署名され、翌1952年4月28日に発効しました。同条約第3条により、奄美群島を含む北緯29度以南の琉球列島は日本から行政分離することが決定されました。アメリカ政府の狙いは、日本を「対ソ封じ込め」の重要な戦略拠点とすることにあり、なかでも沖縄は「アメリカ大陸以外の基地の中で最強」の基地として編成されていったのです。沖縄各地で住民に解放した土地を新たに銃剣とブルドーザーで、強制接収し基地の拡張・整備をすすめました。読谷村内でも楚辺、渡具知の集落が立ち退きの対象となり、復興に向かいつつあった住民の反対要請にもかかわらず、強制的に他の土地に再び移動させられることになりました。なかには住み慣れたふるさとの土地を離れ、八重山に移住し、開拓移民となった人もいました。
そして1946年11月20日、最初の5千人が故郷に帰りました。その後、楚辺(そべ)、大木(おおき)、座喜味(ざきみ)、宇座(うざ)、渡慶次(とけし)、瀬名波(せなは)のそれぞれ一部への居住が許可されていきました。
写真解説
4.日本復帰 −残されたアメリカ軍基地−
解説文
アメリカ軍政府の占領政策のもと放置された沖縄は、27年間の長期にわたる実質的な軍事占領下におかれ、耐え難い抑圧と犠牲を強いられてきました。軍事基地があるが故のさまざまな被害を被り、そこには人権尊重という精神もなく、時には生きる権利さえも踏みにじられた沖縄県民の悲痛なさけびが日本本土へ届くまで長い時間がかかりました。1972年5月15日、沖縄は「祖国」日本へと復帰しました。それは、平和憲法下において「核も基地もない平和な島」に生まれかわる日のはずでした。しかし、県民の切なる願いは裏切られ、復帰後も米軍基地は居座り続け、「異常な基地の島・沖縄」は依然として存続し、幾多の事件・事故、演習激化による被害は何ら改善されることのないまま、沖縄の苦難の歴史は続いているのです







