テーマ5:復帰闘争
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1.祖国復帰協議会の結成 −高らかに歌う「沖縄を返せ」−
解説文
1951年のサンフランシスコ講和会議を前にして、沖縄では日本復帰促進期成会が結成され、復帰を求める署名運動に有権者の72%が参加しました。しかし、講和会議において沖縄が日本から切り離され、米国の統治下におかれることになると、人々の日本復帰への願いは米国民政府の強い圧力で立ち切れになっていきました。
しかし、1950年代の島ぐるみ闘争と、相次ぐ米兵・米軍による事件・事故や核持ち込み、復帰運動弾圧を狙った集成刑法の公布などで政治情勢は緊迫の度を強めていきました。そうして1960年には、沖縄県祖国復帰協議会が結成されました。
2.基地容認の意味すること −朝鮮戦争・ベトナム戦争への加担−
解説文
沖縄の米軍基地は現在に至るまで、朝鮮戦争・ベトナム戦争・湾岸戦争など、アメリカが戦争をするたびに直接発進基地として使用されてきました。
県民は、朝鮮戦争において初めて、その役割を担う基地を目の当たりにし、米軍にとっての沖縄基地の重要性を認識したのです。
そして、米国がベトナム戦争に介入すると、沖縄の米軍基地は、ベトナムへの最前線基地として機能しました。沖縄の米軍基地から発進したB52がベトナムを爆撃し、多数の民衆を殺し、ナパーム弾で家や田畑、森林を焼き払ったのです。また森林に枯れ葉剤をまき、その後遺症として多くの奇形児を残しているのです。
3.即時無条件全面返還 −核・基地のない沖縄を!−
解説文
沖縄県祖国復帰協議会の発足(1960年)当時のスローガンは「平和条約の撤廃または権利の回復」「祖国復帰への万全の対策」「祖国9千万の同胞と復帰の実現を図る」でした。そして、北緯27度線での海上集会、1964年の主席公選・自治権拡大闘争など、復帰への願いは高まっていきました。
しかし、米軍基地の存在が「沖縄住民もベトナム戦争に加担する加害者だ」という認識を強め、これまでの「祖国復帰」から、基地の全面撤去を求める「反戦復帰」へと運動の流れを変えました。そして1968年からの復帰運動には「即時無条件全面返還」というスローガンが掲げられるようになったのです。
4.沖縄返還の日5・15 −すりかえられた県民の願い−
解説文
悲願の日本復帰は実現しました。しかし、記念式典が行われた那覇市民会館の隣にある与儀公園では、大雨の中で抗議集会が開催されていました。そして壇上には、市民会館で復帰を宣言する屋良知事を支えてきた人々が上がっていたのです。
日米政府が考えていた沖縄返還と沖縄住民が思い描いてきた祖国復帰とのあいだには、大きなずれがありました。1969年に発表された日米共同宣言は「核抜き、本土並み」の基本方針を示し、日米安保条約を沖縄に適用したものでした。日米両政府は、従来どおり沖縄を「太平洋の要石」として位置づけ、基地の安定保持を考慮した施政権返還を行ったのです。