テーマ3:踏みにじられた命と人権
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1.由美子ちゃん事件(1955/石川市) −少女暴行殺害−
解説文
1955年9月、石川市に住む当時6歳の女児が嘉手納海岸で遺体となって発見されました。「由美子ちゃん事件」と呼ばれています。発見当時、由美子ちゃんは下着一枚で仰向けに捨てられ、降り続く激しい雨でずぶ濡れでした。暴行・殺害として米軍と琉球警察が捜査し、事件発生の2日後、嘉手納基地第22高射砲大隊第2中隊所属のアイザック・J・ハート軍曹(当時31歳)が逮捕されました。
沖縄各地で土地の強制接収が行なわれていた時期であり、事件に対して各地で抗議集会が開かれました。米兵は軍法裁判で死刑の判決を受けましたが、実際は米国に帰還し、責任の所在はうやむやになっています。
2.琉大事件(1956) −学生運動に対する弾圧−
解説文
専制的な占領政策を続けてきた米軍は、島ぐるみ闘争に対して露骨な攻撃を行いました。
1956年7月、四原則貫徹県民大会が成功し、8月に学生による集会が予定されると、米軍はコザを中心にした中部一帯を無期限にオフリミッツ地域とすると脅しをかけてきたのです。さらに琉球大学に対し、学生が反米的だとして、財政援助の打ち切りと、学生の処分を要求し、6人を除籍処分、1人を謹慎処分とさせました。
米軍は権力を利用し、県民同士を敵味方に分断し、島ぐるみの闘いを崩壊させようとしたのです。
3.宮森小学校ジェット機墜落事故(1959/石川市)
解説文
1959(昭和34)年6月、石川市宮森小学校に米軍ジェット機が墜落・炎上しました。この戦後最大の米軍機墜落事故により、17人(児童11人)が亡くなり、210人(児童156人)が負傷しました。
米軍機は、嘉手納基地を離陸した直後にエンジン故障によって操縦不能となり、川崎方面から火を吹きながら100mに及んで民家35棟をなぎ倒し、宮森小学校のトタン屋根校舎に激突し、隣のコンクリート校舎に突っ込みました。小学校には千人余りの児童がいましたが、校舎とその周辺は火の海となり、火だるまになった子供たちの逃げ惑う姿は、まるで戦争を思わせる光景でした。
写真解説
4.イノシシ事件(1959/金武町) −ライフル銃による女性射殺−
解説文
基地と隣り合わせに暮らす沖縄では、地域の住民が基地内で米兵に殺された事件が起こっています。
1959年12月、土曜日の午後なので軍事演習はないと思い、演習場内にある自分の水田を見回りに行った女性が、狩猟に来ていた米兵によって20メートルの至近距離から安全確認もないまま射殺されました。米兵は、雑木林でガサガサと音がしたのでイノシシと思い発砲したと証言しました。
事件当日は、演習を知らせる赤旗表示もなく、演習警告のサイレンもありませんでした。
5.国場君轢殺事件(1963/那覇市) −米軍トラックによる轢殺−
解説文
1963年2月、軍用道路1号線(現在:国道58号線)で米軍の大型トラックが、横断歩道を渡っていた国場秀夫君(上山中学校1年生)をひき殺しました。目撃者の証言によると、中学生14、5人が青信号を横断中、大型トラックが信号を無視して横断歩道に突っ込んだということでした。
当初、米軍は事故の加害性を認めていましたが、米軍基地内で行われた裁判では無罪の判決が出されたのです。理由は、運転手が「夕日がまぶしくて信号が見えなかった」と証言したためでした。この事件は、沖縄の日本復帰の際、第一次裁判権の保有を求める大きなきっかけとなりました。
6.隆子ちゃん圧殺事件(1965/読谷村) −トレーラー投下による少女圧殺−
解説文
1965(昭和40)年6月、読谷村親志の棚原隆子ちゃん(10歳)が米軍機から投下されたトレーラーの下敷きになり死亡しました。
1960年から、読谷飛行場をターゲットエリアとした米軍空挺訓練(パラシュートによる物資投下訓練)が実施されるようになり、それにともなって基地被害が続発し、ついに死者を出したのです。
投下されたパラシュートは、度々ターゲットを外れ、民間地域の住宅や庭先、道路、畑などに落下し、多くの被害を出していましたが、自宅近くで隆子ちゃんが圧殺された事件は、県民に大きな衝撃を与え、村民を中心に激しい抗議が行われました。
写真解説
7.燃える井戸(1967) −地下水脈に流れ込んだジェット燃料−
解説文
1967年5月、嘉手納基地のジェット燃料がパイプ破損のために地下水脈に流れ込み、地下水や井戸が燃え出しました。この事件により、地域住民は、生活用水が使用できなくなっただけでなく、町全体が爆発するかもしれないという恐怖にさらされました。
米軍基地は自然や生活環境に関わる公害を生み出し、中部西海岸では化学薬剤や洗浄剤、オイルの流出によって大量の死魚が浮く事件も起こっています。また、実弾砲撃演習で焼かれ、地肌を削られた恩納(おんな)岳からは赤土が海に流出し続けています。
復帰以前に進んだ自然破壊の最大の要因は、米軍基地によるものだといえるのです。
8.B52墜落(1968/嘉手納町) −嘉手納弾薬庫内で爆発炎上−
解説文
1964年、アメリカ政府は遂にベトナム戦争に直接介入しました。翌年、B52は台風避難を理由に嘉手納基地に駐留し、ベトナム戦争の激化に伴って常駐化しました。「黒い殺し屋」とも呼ばれるB52は、沖縄から大量の弾薬を積み、ベトナム爆撃の中心的な役割を担っていました。
そのB52が1968年11月、離陸に失敗し大爆発を起こしました。周辺に住む人々は、また戦争かと逃げ惑い、墜落現場近くの弾薬庫に核兵器が貯蔵されていることから、県民は恐怖と怒りにふるえました。翌年、県知事と政府の合意のもとで2.4ゼネストが中止となりましたが、5万人の住民が集まり怒りの抗議を行ったのです。
写真解説
9.コザ暴動(1970/沖縄市) −米軍支配への怒りの爆発−
解説文
1970年12月、コザ市(現沖縄市)の中の町前の県道で、横断中の県民が米兵車両に跳ねられました。9月に発生した米兵による糸満の主婦轢殺事件が無罪となったことや、頻発していた米兵による事件に不満を持っていた民衆は、事故直後から現場に集まってMPの動向を見守っていました。そして、事故処理中、500人以上になっていた民衆に対してMPが威嚇発砲したことから、圧政下での反米感情が一気に爆発したのです。駐車中のMPカーや外人車両82台に次々と放火し、嘉手納基地第二ゲートへ乱入、さらには米人学校への放火など、地域住民をかつてない行動へと駆り立てました。
写真解説
10.毒ガス移送(1971/沖縄市) −明らかになった毒ガス兵器の存在−
解説文
米軍は「化学兵器の実効性をテストする」という目的で、知花弾薬庫に致死性の毒ガス兵器を秘密裏に持ち込みました。このことが明るみになったのは、1969年7月、神経ガスの漏出事故で25人の米軍人が病院に収容されたという米国の新聞報道でした。この漏出事故は県民に衝撃を与え、島ぐるみの撤去闘争に発展しました。その結果、米軍は米国領のジョンストン島に毒ガス兵器を移送する計画「レッドハット作戦」を発表し、1971年1月の第1次移送と、7月から9月にかけての第2次移送の2回に分けて移送しました。地域住民5千人余を避難させ、知花弾薬庫から天願桟橋までを陸上移送し、天願桟橋からジョンストン島までを海上移送しました。化学兵器の貯蔵は、米本国以外では沖縄のみの配備で、戦場に直結する「基地オキナワ」が浮きぼりになった事件でした。








