テーマ1:戦後生活の始まり

1.戦後は収容所から始まった

解説文

米軍は、投降した人々を軍人と民間人に分け、軍人は捕虜収容所に、民間人は民間人収容所に送りました。捕虜は、日本本土、沖縄、朝鮮、台湾と出身地別に分けられました。

収容所に送られてくる人は、戦闘を体験していない人、北部で餓死寸前で救出された人、南部の戦場で砲爆撃の嵐をかいくぐってかろうじて生き延びた人など様々でした。着の身着のままで収容され、収容後もマラリアや栄養失調などで亡くなる人が絶えませんでした。

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2.軍作業に駆り出された日々

解説文

軍作業は、米軍が収容所にいる人々に対して道路工事や荷おろしの作業をさせたことが始まりと言われています。1946年に賃金制になるまで、労務の対価は食料やタバコ1ボールなどの現物支給でした。

1948年末には恒久基地化政策のもと、道路・港湾・米軍住宅・倉庫の建設など基地建設ラッシュとなり、多くの労働者が軍作業に携わるようになっていきました。

軍雇用は賃金が高く、教員を辞めて軍雇用に流れた人もいました。そして1950年代に入ると職種も広がり、ドライバー・通訳・修理工・ウエイトレス・ハウスメイド・事務・タイピスト・ガードマンなどの仕事に就くようになっていきました。

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3.青空の下で学校が始まった

解説文

日米両軍が浦添から那覇・首里付近で熾烈な戦闘を行っていた5月、石川市の難民収容所では初等学校(現在の城前小学校)が開校しました。教師経験者が集められ、教室も机も椅子も教科書も鉛筆もないままのスタートでした。まさに青空教室と地面に書いた砂文字で授業をしたのです。その後、テント校舎ができ、茅葺き校舎になり、米軍のコンセットが校舎として使用されました。

8月には、軍政府内に教科書編纂所ができ、「軍国主義的、超国家主義的、日本的な教材を除く」という編集方針のもと、教師たちの記憶を頼りに、戦後最初のガリ版刷りの教科書ができました。

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4.シマは全て軍事基地になった

解説文

米軍は本島上陸と同時にミニッツ布告を発布し、米軍政府の樹立を宣言しました。日本政府の行政権を停止しました。

米軍は日本軍が建設した読谷(北)・嘉手納(中)飛行場などを中心に、必要な土地を好きなだけ囲い込み、軍用地を確保しました。人々の故郷は基地の金網の向こうに消え、収容所から帰る土地はありませんでした。住民は米軍が居住を許可した僅かな土地で再出発することを強いられました。

米軍上陸の地となった読谷村は、沖縄戦や本土上陸作戦に備えた米軍の軍事物資の陸揚げ場所ともなり、村全域が米軍基地化されたのです。

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更新日:2026年03月26日