テーマ6:読谷村の避難壕 −生と死を分けたもの−

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1.生と死を分けたもの

沖縄本島が米軍に空襲されるようになると、住民たちは沖縄古来の亀甲墓や自然壕(ガマ)に避難していました。

米軍が上陸する間際になって、ようやく多くの人々が国頭(くにがみ)に避難しましたが、村にとどまった村民も多くいました。

地上戦では、皇民化教育や投降を許さない日本軍の考えにより、死ぬことしか選択の余地がないところに追い込まれた住民が家族を殺し、自らも自殺するという悲惨な事態が発生しました。『集団自決」あるいは「強制集団死」とも呼ばれています。

2.チビチリガマ

解説文

米軍が沖縄本島に上陸した当時、字波平(なみひら)の住民が避難していたチビチリガマでは、約140名のうち83名が「集団自決」(強制集団死)しています。その約半数近くが幼い子供たちでした。目の前に米軍兵士がせまり、恐怖のなかで一昼夜を過ごした人々は、捕虜になれば残酷な殺され方をすると信じ、自らの手で家族を殺すという行為に走ったのです。

同字のシムクガマに避難して助かった人々と、チビチリガマにいた人々に生活環境などの違いはありません。なぜ死ななければならなかったのか、その背景にあるものは、いったい何だったのでしょうか。

写真解説

3.シムクガマ

解説文

米軍が本島上陸した地点から程近い字波平(なみひら)にあるシムクガマには、約千人の住民が避難しており、その中には2人のハワイ移民の帰省者がいました。

米兵がガマ入口から投降を呼びかけたとき、2人はそこに日本兵がいないことを説明し住民の保護を求めました。そしてガマの中の住民を説得し、全ての人々が投降したのです。

チビチリガマと対照的に取り上げられるシムクガマですが、千人もの人々を生かした最大の要因は、英語が話せ、アメリカ軍が捕虜を殺さないという事実を知る、移民経験者の存在といわれています。

写真解説

4.その他のガマ

解説文

沖縄本島が空襲されるようになると、人々は警報が鳴る度に屋敷内の手掘りの「家族壕」に避難しました。本格的な「十・十空襲」以降は、大きく頑丈な亀甲墓や自然壕(ガマ)へ避難するようになりました。

いよいよ米軍が上陸してくる直前になって、多くの村民が国頭(くにがみ)へ避難しましたが、そのまま村に留まった人々は、ガマの中で米軍の上陸を目の当たりにしたのです。

沖縄戦において、ガマは命を守るものであったと同時に、大きな悲劇をも生みました。村内にあるいくつかの壕から、沖縄戦と住民のかかわりが見えてきます。

更新日:2026年03月27日