テーマ5:米軍上陸と読谷村

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1.時間稼ぎの捨て石作戦

1945年3月26日の慶良間上陸についで、4月1日米軍は本島中部西海岸から上陸しました。戦力で圧倒的に劣る日本軍は、上陸地点での本格的な戦闘をさけました。第32軍は、軍司令部のある首里を中心とした複郭陣地を構築し、時間稼ぎの持久戦を展開しました。

本土決戦のための時間稼ぎの消耗戦の中で、多くの住民が戦闘に巻き込まれ、後に「鉄の暴風」と呼ばれた米軍の砲撃の犠牲になったり、日本軍の虐殺や「集団死」による犠牲者も出ました。

沖縄の学生らも、何らの法的根拠の無いまま「鉄血謹皇隊」や「従軍看護隊」として戦場に動員され、その多くが犠牲となりました。

2.アイスバーグ作戦 −日本本土攻略の足がかり−

解説文

アメリカ軍は日本を降伏させるための第1段階として沖縄進攻作戦を計画し、「アイスバーグ作戦」を策定しました。戦後、沖縄を占領し、軍事基地にする戦略構想がたてられていました。

米軍は文化人類学の知見を活用し、沖縄の島々の地図や歴史、地理、民俗などを詳細に調べ、『民事ハンドブック』を作成しました。占領後の住民の保護、占領行政など、周到な準備をしていました。

沖縄は、日本本土を攻略し、降伏させるための足場として、地理的に有利な位置にありました。アメリカ軍は、太平洋戦争最大の上陸作戦を開始したのです。

兵員・物量ともに日本軍をはるかに上回る強大なアメリカ軍の攻撃は、沖縄本島を一木一草もないほどに焼きつくし、山野の形も変えてしまいました。

激烈な戦闘が3ヶ月にもおよび、住民たちは絶望と恐怖のなか戦場を逃げまどい、日本兵を上回る死者をだしたのです。

写真解説

3.日本軍の作戦 −戦略持久作戦−

写真解説

4.アメリカ軍上陸と読谷

解説文

1945年3月17日、硫黄島を占領したアメリカ軍は、26日沖縄本島の西方40kmにある慶良間諸島に上陸しました。

日本軍は飛行場守備を放棄し、内陸の丘陵地帯での攻防戦に備えていました。

アメリカ軍は、沖縄本島上陸前におよそ4万発以上の砲弾を打ち込みました。日本軍の迎撃のないことを確認し、4月1日、本島西海岸の読谷村・北谷村から上陸を開始しました。北飛行場と中飛行場を占領し、3日には東海岸に進出、沖縄本島を南北に分断しました。

西海岸沿いに北に向かって進攻したアメリカ軍は、13日には最北端・辺土岬に到達していました。16日、伊江島での激戦は住民を巻き込み、軍・民ともに多くの死傷者を出しました.

戦闘が続くなか、北部(国頭)一帯では、中南部から避難した住民と地元の住民たちが、マラリアの恐怖と飢餓に苦しみながら山野を逃げまどっていました。

その上、日本の諜報機関が組織した遊撃隊が住民たちを監視し、捕虜になることさえ許しませんでした。

読谷村には2月、国頭退去の命令が出ていましたが、艦砲射撃が激しくなった3月下旬、村民はあわてて荷づくりをして国頭に避難しはじめました。しかし、各字(あざ)のガマや亀甲墓などに隠れ、読谷村に残った人たちも少なくありませんでした。

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5.沖縄本島中部・南部の戦争

解説文

1945年4月1日、沖縄本島に上陸したアメリカ軍は、北部方面と中南部方面の二手に分かれて進攻しました。上陸地点では散発的な戦闘が続きました。

首里城下の第32軍司令部壕の北10㎞ほどの地点にある嘉数高地には、日本軍(第62師団)が布陣していました。4月8日、日本軍とアメリカ軍の本格的な戦闘がはじまり、16日間におよぶ死闘がくりひろげられました。司令部を守る日本軍は、爆弾を抱えて戦車に飛びこむ肉弾戦など必死の抵抗をし、一進一退の戦闘で、両軍に多大な死傷者をだしました。

司令部が摩文仁に後退した5月下旬、南部には敗走する日本兵と砲弾に逃げまどう住民たちの姿がありました。刈り残されたサトウキビは逃げまどう住民たちにとって、命をつなぐ食物であり、石灰岩の暗いガマ(壕)は砲弾から身を守るための避難場所でした。南部のたくさんのガマは、軍病院壕や住民の避難壕となっていましたが、なかには、住民たちが敗残兵に避難壕を追いだされ、鉄の暴風といわれた戦場に放りだされることもありました。

6月22日には摩文仁の洞窟で牛島満司令官・長勇参謀長が自決し、組織的戦闘は終わりましたが、アメリカ軍が掃討作戦の終結宣言をしたのは、7月2日でした。

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6.根こそぎ動員 −戦場に駆り出されたひとたち−

解説文

沖縄守備軍は、兵員の不足をおぎなうため、防衛召集を実施しました。地上戦がはじまるまでには2万5千人以上が招集され、1万3千人以上が犠牲になったといわれています。

1945年2月、沖縄県は戦時行政に移行し、県下市町村単位の国土防衛義勇隊を編成しました。男性は17歳から45歳、女性は17歳から40歳が現地召集の対象とされましたが、実際には15歳以下の子どもや60歳以上の老人も含まれていました。

また、男子学生は「鉄血勤皇隊」や「通信隊」などに、女子学生は「従軍看護隊」として学徒隊に編成されました。わずかな訓練を受けただけで、アメリカ軍上陸直前の3月下旬には沖縄守備軍の各部隊に配属されました。闘いの最前線で軍隊と行動をともにし、追いつめられ、半数以上が犠牲になりました。6月22日までは、学徒を戦場に動員する法的根拠はありませんでした。

写真解説

7.ガマと戦場 −軍人よりも多い住民の犠牲者−

解説文

1945年5月下旬、中部戦線で主戦力の8割を失った沖縄守備軍の司令部は、南部へ撤退しました。アメリカ軍は掃討戦を展開し、海からも空からも砲弾をあびせ、緑豊かな丘陵は、石灰岩の白い肌がむきだしになり、家も木も森も全てを焼き尽くしました。

南部へ逃げた住民たちは、ガマや墓に身をひそめましたが、そこも安全な場所ではありませんでした。日本兵によって食料を強奪され、ガマや墓から追い出された人びともいました。幼い子どもたちの泣き声でアメリカ軍に発見されるという理由で砲弾の中に追い出されたり、スパイ容疑による殺害、自決の強要など、自国の軍人によって命を奪われた人も少なくありませんでした。

沖縄本島ではアメリカ軍上陸の4月1日に収容所に囲われ、戦後生活をはじめていた住民もいましたが、8月15日すぎても山野を逃げまどっている人びともいました。戦闘に巻きこまれた住民の死者は軍人よりも多かったのです。

写真解説

更新日:2026年03月27日