テーマ4:疎開と戦時遭難船舶

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  4. テーマ4:疎開と戦時遭難船舶

1.子どもたちの戦争

南西諸島へのアメリカ軍の上陸が必至となり、日本政府は老幼婦女子を疎開させる計画をたてました。

見知らぬ土地へ行く不安から、希望者が集まらず、それでも、村内から52名の児童を疎開させましたが、親元をはなれたさみしさと食糧難、寒さなどで苦しく、つらい生活でした。また海上はアメリカ軍の潜水艦や艦載機の待ち受ける危険な海域でした。児童767人が犠牲となった対馬丸の遭難の悲劇がおこりました。

民間船が軍に徴用され、兵員や物資の輸送を行うかたわら民間人の引揚者も乗せていましたが、これらの船もアメリカ軍によって撃沈され、犠牲となりました。

2.県外への疎開 −心細く暮らした疎開生活−

解説文

1944年7月、南西諸島へのアメリカ軍の上陸が必至となり、日本政府は戦闘の足手まといとなる老幼婦女子を10万人県外へ疎開させる計画をたてました。南九州に6万5千人、台湾へ1万人余りが送りだされましたが、九州までの600㎞の道のりは、アメリカ軍の潜水艦と艦載機の待ち受ける危険な海域でした。

読谷村でも疎開者の募集が行われましたが、家族と離れて見知らぬ土地へ行く不安から人数が集まりませんでした。結局、学校側の熱心なすすめで、52名の学童が宮崎県の加久藤国民学校へ疎開しました。なれない土地でのくらしは、親元を離れたさみしさと食糧不足や寒さなどで、苦しいつらい生活でした。

写真解説

3.対馬丸の遭難 −犠牲になった学童たち−

解説文

学童の県外疎開は、原則として国民学校(現在の小学校)の3年生から6年生の男児を対象とし、児童40人に1人の引率教員と、児童20人に1人の世話人(女子中等学校生徒高等科の生徒)が同行しました。

1944年8月21日に那覇港を出発した対馬丸には、学童826人を含む約1700人が乗船していました。22日、夜、対馬丸は鹿児島県トカラ列島悪石島の西方12kmの海上でアメリカ軍潜水艦の魚雷をうけて沈められました。

学童767人、乗員乗客717人が犠牲になり、今も暗く冷たい海の底に沈んだままです。学童とその関係者の犠牲者は、那覇市の旭ヶ丘公園内にある「小桜の塔」に祀られています。

写真解説

4.戦時遭難船舶 −今なお海底深く眠る犠牲者たち−

解説文

1944年夏ごろ、沖縄決戦に備えて全島要塞化が急がれ、沖縄の島々には、多くの軍事物資や兵員が送られてきていました。また、沖縄からは南九州・台湾に疎開する老幼婦女子を乗せた船舶が危険な海に出航していました。

当時、民間船のほとんどが軍に徴用され、兵員や物資を輸送するかたわら、一般住民や南洋引揚者を乗船させていました。

すでに制海権を失った太平洋の海では、戦闘能力をもたない多くの民間船舶がアメリカ軍によって撃沈されました。当時、沈められた船のことは公表が禁じられ、今もなお、遭難船舶犠牲者の名簿は未確定で、遺族に対する補償も行われていないのです。

写真解説

5.国頭(くにがみ)疎開 −飢えと病に苦しんだ人々−

解説文

1945年2月10日、戦局が緊迫してきたことで10万人の国頭への立退き計画が緊急に決められました。

山原一帯には、中南部の住民たちが疎開する地域を、各村ごとに割当て、指定地が決められていました。住民たちにとって、知らぬ土地へ移動する不安も大きく、読谷村の人々が北部への避難をはじめたのは、アメリカ軍の艦砲射撃がはじまる3月23日ごろでした。

山間地で田畑の少ない山原に、大勢の住民が避難したため、たちまち食料はなくなり、口に入るものはすべて食べ尽くしたのです。衰弱した体にはマラリア(伝染病)が襲い、病気や飢餓で死んでいった人たちも多かったのです。中南部から山原に疎開した人々は、およそ3万人だったといわれています。

読谷村では、国頭村奥間を中心に疎開者の受け入れをすすめていましたが、避難せず、村に残った住民たちも多かったようです。

写真解説

更新日:2026年03月27日