テーマ3:陸軍北飛行場の建設と第32軍の沖縄配備
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1.陸軍北飛行場の建設と第32軍の沖縄配備

日本軍は、沖縄を南方への補給拠点と位置づけ、不時着用の飛行場の新設をめざしました。読谷村では、1943年夏ごろから北飛行場建設がはじまり、多くの村民が動員されました。
1944年3月22日、大本営直轄の第32軍が創設されました。沖縄の各地では1944年の夏からつぎつぎと日本軍が配備されました。学校・公民館・民家までもが日本軍に接収されると、住民は日本軍への食糧供出や、飛行場の建設や陣地構築などに徴用されました。防衛隊、学徒隊、義勇隊などの戦場動員も進められました。また、朝鮮半島からも多くの人々が徴用され、過酷な労働を強いられました。
2.アジア・太平洋戦争と「絶対国防圏」
解説文
1941年12月8日、日本軍は、当時イギリス領だったマレー半島へ奇襲上陸すると、すぐさまハワイの真珠湾への奇襲攻撃を開始しました。アジア・太平洋戦争のはじまりでした。開戦当初こそ日本軍は戦局を有利に展開していましたが、1942年6月のミッドウェー海戦では空母4隻を失うなど大敗を喫しました。輸送路を断たれるなど、これ以降、戦局は悪化の一途を辿っていきました。
1943年9月、御前会議が開かれ、「絶対確保すべき要域」として「絶対国防圏」が設定されました。「絶対国防圏」とは、千島列島~小笠原諸島~サイパン・テニアンを含むマリアナ諸島~カロリン諸島~西部ニューギニア~ビルマにわたっていました。広範囲に及ぶ「絶対国防圏」のなかでもサイパン・テニアンはその要とされ、反撃態勢のたてなおしがはかられました。
南方への補給拠点として、沖縄では飛行場の建設が進められました。読谷村では1943年夏頃から北飛行場の建設がはじまり、続いて徳之島、伊江島、石垣島でも飛行場が着工されました。
1944年3月22日、大本営直轄の第32軍が創設されました。この当時、台湾や南西諸島で大本営が重視していたのは、航空作戦準備でした。地上兵力は「航空基地の防備」などを主な任務とするにとどまり、沖縄島への配備が想定された地上部隊は一個混成旅団のみでした。南方への補給拠点として着工された北飛行場は、第32軍の航空作戦準備に組み込まれ、「小型用」の飛行場として建設が進められました。
写真解説
3.サイパン陥落と沖縄の全島要塞化
解説文
1944年6月15日、サイパンにアメリカ軍が上陸すると、民間人を巻き込んだ熾烈な戦闘が展開されました。7月7日には日本軍の組織的戦闘が終了し、「絶対国防圏」の要であったサイパンが陥落しました。これにより、日本の主要都市がB-29の爆撃圏内に収まりました。また、サイパンには沖縄から多くの人々が移住しており、この戦闘で6,200名ほどの沖縄出身者が犠牲になりました。
サイパンでの戦闘中、大本営は第32軍の強化をはかりました。第32軍に地上部隊を編入し、南西諸島の要塞化を決定しました。創設当初の軍司令官 渡辺正夫中将に代わって、牛島満中将が第32軍司令官に着任しました。第32軍は飛行場の建設と並んで、地上戦を想定した陣地構築を進めました。沖縄の全島要塞化が進められました。1945年3月末の時点で、沖縄県下に15ヶ所の飛行場がつくられました。
写真解説
4.陸軍北飛行場と10・10空襲
解説文
1943年6月、読谷村の中央付近の畑地や原野に、突如として赤い旗が立てられました。一週間ほどして国民学校に関係地主が集められ、そこが飛行場予定地であることを知らされました。7月末から地元の請負会社が工事を開始し、各地から集められた徴用人夫と数千人の村民が動員されました。食料や資材、工具は不足し、人力に頼るしかありませんでした。岩石を砕いて平坦にする滑走路工事は難渋し、1944年3月までに完成したのは、単線の滑走路1本だけでした。1944年4月になると、軍・民の2本だての工事となり、飛行場建設に拍車がかかりました。航空作戦の基地として機能するのは6月以降でした。
10月10日の空襲は、那覇の町を爆撃しただけでなく、読谷村の北飛行場も大きな打撃を受けました。昼夜に及ぶ補修工事を行い、10月12日の台湾沖航空戦やその後のフィリピンのレイテ沖海戦(捷一号作戦)の中継基地として使用されました。








