テーマ2:読谷村の戦前の暮らし
- ホーム
- 常設展示室
- 第1展示室:読谷村と沖縄戦
- テーマ2:読谷村の戦前の暮らし
1.昔、読谷山-ゆんたんざ 戦前の読谷村

戦前の読谷村は、「読谷山村」と呼ばれており、古くからサトウキビとサツマイモの一大産地でした。
農業のかたわら漁業も行われており、特に宇座は鰹漁が盛んな地域として知られていました。
比謝矼は、古くから交通の要所として知られ、商業が発達していました。嘉手納に製糖工場ができ軽便鉄道が敷設されると、一大商業地として発展しました。
当時の子どもたちは、畑仕事や水汲み、草刈りなどの家事を手伝いながら、自然の中で工夫して遊びを見つけていました。
2.農業と漁業 −畑と海の暮らし−
解説文
読谷村は、古くからサトウキビとサツマイモの一大産地でした。サトウキビでは、病害虫に強く多収量の「読谷山種」を作りだし、サツマイモも品種改良した「佐久川」や「暗川」などを生みだすなど、農業では進取の気質を持つ村でした。村民の現金収入の多くは、農作物に支えられていました。
農業のかたわら、長浜・瀬名波・宇座・渡慶次・儀間・都屋・楚辺・渡具知の8集落では漁業がおこなわれており、明治期後半には、漁業組合も結成されました。特に宇座は、鰹漁が盛んな村として知られていました。
3.商業 −比謝矼でのあきない−
解説文
比謝矼には、古くから国頭(本島北部)と那覇を往来する山原船(やんばるせん)が接岸する比謝港がありました。そこには徳之島や沖永良部島などから運ばれてくる牛の陸揚げ場もあり、牛市が開かれました。
1911年に嘉手納製糖工場が竣工されると、那覇から嘉手納にかけての陸路が改修され、荷馬車の往来が盛んになりました。比謝矼は嘉手納に近いことから、馬具屋や鍛冶屋、料亭、旅館、生活雑貨店などが増えました。1922年に那覇から嘉手納までの軽便鉄道嘉手納線が開業すると、比謝矼では一大商業地が形成されました。
写真解説
4.海外移民と出稼ぎ
解説文
読谷村では、1904年を皮切りに、メキシコ、ハワイ、フィリピン、南米各国に多くの村民が移民しました。
移民とはいうものの、村民の間では、海外で稼いで「故郷に錦を飾る」という意識が強く、そのほとんどが妻子を残して単身で赴いていました。移民地に永住するというよりは、いわば出稼ぎのようなものでした。実際に財をなして村に帰った人も多く、そのお金が農民の貧しい生活をうるおしました。移民地からの送金が戦中戦後の家族や親戚の生活を支え、また地域社会の戦後復興にも一役買ったとも言えるのです。
5.子どもたちの暮らし
解説文
農業主体であった戦前は、子どもたちを学校に通わせない家が多く、先生が子どもを迎えにきて、行列をつくって学校へいく光景が見られました。子どもたちには遊ぶ暇はほとんどなく、畑仕事、水汲み、草刈りなどの家畜の世話、子守りなどの家事を手伝いながら、海や川といった自然の中で工夫して遊びを見つけていました。
衣服も着物が多く、はだしの生活でした。履物と言えばもっぱら下駄で、それを履けるのもせいぜい正月くらいなものでした。下駄は大変貴重なもので、那覇へ出かけるときにも腰に下げ、玄関に入る直前に少しの間だけ下駄を履いたというほどでした。
決して豊かな時代ではありませんでしたが、人と人のつながりの見えるあたたかい暮らしがあったのかもしれません。

