テーマ1:近代日本と沖縄
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1.琉球から沖縄へ
1879年、明治政府は武力を背景に「琉球処分」を断行しました。琉球王国は解体し、沖縄県が設置されました。
明治政府は、琉球の士族の不満を抑えるため、「旧慣温存政策」をとり、王国時代の旧制度がそのまま「温存」されました。
読谷村も「読谷山間切」のままでした。読谷山村に変更したのは、1908年のことでした。
2.琉球処分
解説文
700年近く続いた武家政権の時代が終わり、1868年に明治政府が誕生しました。藩閥を柱としてつくられた新政府は、天皇を中心とした中央集権国家の確立をめざし、日本の国境の画定を重要な政治課題としました。北海道や小笠原諸島の領有化に続き、明治政府は琉球王国の併合をめざしました。
これまで琉球王国は、薩摩藩に支配されていましたが、その一方で清国との冊封・進貢関係を続けていました(日清両属)。ところが、1871年に台湾で宮古島の遭難者が殺害された事件(牡丹社事件)がおこると、1874年、明治政府は台湾に出兵しました。台湾出兵は、琉球が日本領であるとの前提に立っており、〈保民義挙〉の名目で正当化されました。同年、日清両国間で締結された「日清両国間互換条款」では、琉球の人々が〈日本国ノ属民〉と表記されました。琉球が日本の版図であること、琉球の人々が日本人であることが国際的に追認されていきました。琉球の人々の同意もないまま、既成事実が積み上げられていきました。
1872年、明治政府は琉球藩を設置しました。「日清両国間互換条款」の締結後、明治政府は琉球に対して清国との冊封・進貢関係の停止を命じました。1879年3月、明治政府は警察や軍隊を動員し、武力を背景に琉球藩の廃藩置県を断行しました。明治政府は、琉球藩王の首里城明け渡し、それから琉球の土地・人民・書類などの引き渡しを命じました。1879年4月、沖縄県が設置されました。琉球藩王は上京を命じられました。
こうした状況のもと、沖縄では、日本に帰属し沖縄の文明化を目指す士族(開化党)と、王国体制の存続を主張する士族(頑固党)がいました。頑固党のなかには清国に琉球救国を訴えた士族や清国に亡命する士族(脱清者)もいました。沖縄県庁は琉球救国を訴えた士族に弾圧を加えました。
琉球の帰属を巡る日清間の外交交渉では、アメリカ大統領グラントの仲介もあり、日本側は、宮古・八重山群島を清国領に、沖縄以北を日本領とする「分島・増約案」を提示しました。琉球の日本帰属に反発する清国はこの提案に難色を示し、条約を調印するにはいたりませんでした。日清戦争中も清国の内部では琉球復国が提案されていましたが、1895年、日清戦争が日本の勝利に終わると、琉球の帰属問題は自然消滅し、士族による琉球復国運動も次第に力を失っていきました。琉球王国を日本国に併合する政治過程を琉球処分とよんでいます。
写真解説
3.旧慣温存
解説文
日本に併合されたとはいえ、近代化への動きはいたって緩慢でした。明治政府は沖縄の旧支配者層を懐柔するため、旧慣温存と呼ばれる政策をとりました。旧慣温存とは、土地制度・租税制度・地方制度など、他県で実施された制度改革はすぐには行われませんでした。農村部をはじめとして、すでに沖縄の民衆は疲弊していましたが、その困窮状態は一向に改善されませんでした。
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4.謝花昇と沖縄の自由民権運動
解説文
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