テーマ5:深く -第二次世界大戦-
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1.挙国一致
解説文
国民全体が一致して同じ態度や行動をとることを挙国一致といい、日本では日中戦争前から第二次世界大戦で敗戦するまで続きました。政府の方針に異を唱え対立する勢力を弾圧し、国民全体を同じ道に進ませ、態度や行動も一致して事をおこなうことをいいます。1940年に東京の宮城前広場で「紀元2600年式典」奉祝の祝典が開かれ、5万人ちかくが出席しました。東京のあちこちで「紀元2600年」の奉祝歌が歌われ、各地で祝典が開かれました。
このころ中国では、戦線は拡大し長期化して日本軍は思うように戦果をあげることができずにいました。国内では国民の生活は必需品まで配給制になり、米や炭まで自由にならず正月の酒まで足りませんでした。予定されていた東京オリンピックや万国博覧会が中止となり国民の不満はこの奉祝で愛国心として盛り上げ、戦争拡大への道をそれまで以上に加速させていったのです。
写真解説
2.国民の生活
解説文
中国戦線の拡大と長期化による軍事費の負担は国家財政も危機にし、働き盛りの人々は徴兵され戦場に赴き死傷し、国内では物資が不足となり、配給制度による統制は「隣組」組織をとおして日に日に厳しくなっていきました。「贅沢は敵だ!」の掛け声のもと、国防婦人会・隣組などが監視し、全国民が神社を参拝、贅沢品の製造販売を禁止しました。女性の高価な服装・指輪・化粧・パーマなどが贅沢品としてみなされ、鶏卵・醤油までが統制の対象になりました。統制の強化は価格の高騰となり闇物資がでまわり、国民の生活をより苦しめました。
戦争遂行のため「欲しがりません勝までは」を合い言葉に、5〜10戸くらいをまとめた隣組をとおして、国民生活の末端まで監視し国策を遂行していったのです。貯蓄や国債が割り当てられたり、出兵兵士の見送りや遺族・留守家族への援助にくわえて防空訓練など当時の婦人たちは毎日とても忙しかったと語っています。
国のために死ぬことを強要され、靖国神社に祀られることを名誉としながらも、街角では布に千人の女性が1針ずつ赤い糸で縫い付け縫玉をつけた千人針をこいねがう女性たちがいたのです。夫や息子たちの武運長久と安泰を願い戦場にもたすために必死だったのです。
写真解説
3.学徒動員
解説文
長引く戦争で莫大な戦費と兵力を使った日本は、戦局の悪化にともない経済も破綻していきました。国民の兵役は20歳(現役)から40歳(召集)まででしたが『兵役法』を改正し、1943年11月には45歳までに延長になりました。6月には拡大する戦線にたいして『学徒戦時動員体制確立要綱』を閣議で決定し、本土決戦のための軍事教練と勤労動員を徹底し、女子生徒や子供たちまで生産力の増強と労働力不足を補うため工場や農家に動員しました。14歳以上の未婚女性を勤労挺身隊などの名称で工場で働かせたのです。それまで大学・高専の学生は満26歳まで徴兵を猶予していましたが、内閣の定例閣議で「廃止」を決定、議会の承認もないまま学生たちも戦場に駆り出されました。43年の10月には、東京の明治神宮外苑陸上競技場(現・国立競技場)で文部省主催の「出陣学徒壮行会」が開かれ、東京とその近県の学生たち(理工系学生は延期)は在席のまま制服にゲートルを巻き銃を肩にして家族や友人、動員された女学生の歓声と拍手に送られ戦場にむかいました。学徒兵の中には特別攻撃隊(特攻)に志願して若き命を砲弾にして死んでいった人たちもいるのです。六千人の若者の命は悪化した戦局に成果を与えることもなく、特攻の攻撃は敗戦のときまで続いたのです。
沖縄戦に動員された鉄血勤皇隊にたいして表彰状が用意されましたが、その日付は45年の7月8日になっています。アメリカ軍が南部掃討作戦の終決宣言を発したのが2日ですから、本土決戦にむけて全国の学徒たちを奮い立たせるためだったのでしょうか。
写真解説
4.学童疎開
解説文
1943年ごろには、都市近郊の農産物の買い出し制限が始まりました。都会に住む人々は農産物を着物などと交換したりして食糧を得ていましたが、食糧が不足してくると値段はどんどん上がり「闇」価格が公定価格の何倍にもなりました。配給の物資は遅配・欠配が多くなり庶民は食糧も衣類も手に入らなくなっていきました。町では「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」という看板が掲げられ不服を言うこともできず、配給の品を手に入れるため長い列ができたのです。それでも報道される戦況は真実が伝えられず、日本は必ず勝と国民は信じていたのです。
44年6月、サイパン島が陥落すると、そこの飛行場からアメリカ軍の攻撃機B29による日本本土への空襲が可能になったのです。政府は都会の学校の生徒たち(国民学校初等科高学年)を田舎に集団疎開させることを決定しました。田舎に縁故疎開できる生徒と親元に残る生徒以外は集団で地方の各地に出発しましたが、疎開先の食糧事情も厳しく、飢餓に加えてホームシックやシラミの大発生など生活環境は悪く、ひもじさをしのぐため蛇や蛙も食べたと語られています。
全国で約43万人が移動させられたといわれていますが、沖縄県ではアメリカ軍との決戦にそなえ、足手纏いになる学童を九州・台湾に疎開させることになりました。その中でも第二陣として出発した「対馬丸」は那覇地区の疎開学童・教師など1661人を乗せて九州に向かうとちゅうアメリカ軍の潜水艦から魚雷攻撃をされ海に沈みました。生存者は300人あまりと言われています。
写真解説
5.広島市・長崎市
解説文
敗戦まじかな日本に原子爆弾(原爆)が投下され、数万の市民が一瞬にして焼かれました。原爆の製造はアメリカ主導でおこなわれ、極秘のうちに巨費と多数の科学者や技術者たちが投入され、1945年7月には3個の爆弾が完成しました。その一つは14日にニューメキシコ州の砂漠で爆発実験をし成功しました。原爆の被害の大きさとその脅威に使用に反対する科学者たちもいましたが、残る二つは日本の広島と長崎に投下したのです。 45年8月6日午前8時15分、広島市の中心太田川の下流がつくる三角州の中島地区にアメリカ軍がウラン爆弾を投下しました。市民は学校や会社にむかっていたのです。一瞬の閃光と巨大な茸雲(ピカドンとよばれた)は、街を焼き、人を焼き、肌を焼き、肉や骨をとかしました。爆心地は平坦な市街地で遮るものもなく一瞬のうちに街は壊滅し、全焼家屋は6万戸以上におよび、死者は7万人〜20万人といわれています。
その3日後の9日には午前11時すぎ長崎市にプルトニューム爆弾が投下され7万5千人の命が奪われたといわれています。九州の北部の工業地帯に投下する計画でしたが雲におおわれていたため、長崎市に変更になったようです。9日の長崎の空は快晴だったのです。広島のときと同じように午前2時すぎにテニアンの飛行場を出発した原爆搭載機(B29)は午前8時には九州の空を飛んでいました。3時間がすぎた午前11時に長崎に原爆を投下しましたが、燃料ぎれとなり沖縄の読谷山の飛行場に着陸、小休止をとり燃料を補給しテニアンに帰着したのです。
ノーモアヒロシマ・ノーモアナガサキの声はいまも全世界で叫ばれています。














