テーマ4:深く -アジア・太平洋戦争への道-

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1.昭和の時代(戦前)

解説文

1926年12月、大正天皇が死去し昭和と改元され皇太子裕仁が天皇となりました。翌年には金融恐慌がおこり、政府は日銀特別融資をみとめさせ救済策をとりましたが、その結果は財閥銀行に資本が集中し、主要産業は系列会社にくみこまれていきました。

中国への積極外交政策がとられ武力進出をおしすすめていた政府は「満蒙」での権益を守るため中国山東省の青島(チンタオ)へ出兵、中国に大きな打撃をあたえました。日本国内では労働者の大量解雇・賃下げ・工場閉鎖などで失業者が増え、青年たちには就職難がおそっていました。28年に第一回普通選挙が実施され、労働組合・農業組合など大衆団体は統一し内閣に不信任を表明しました。政府は共産党・労農党・無産青年同盟の活動家を検挙し残忍な拷問をくわえ、治安維持法違反で約500人を起訴しました。

アメリカで始まった世界恐慌の波は労働者だけでなく農業恐慌へと広がり、生糸の暴落で養蚕農家が没落し、冷害による大凶作で農村は荒廃、娘たちは娼妓・酌婦に売られ社会問題になりました。労働者の賃金は切り下げられ、労働運動・農民運動は生活擁護のため各地で争議がおこり、社会運動も高まりました。日本は経済的危機におちいり、その克服に軍事化の道をすすみ、満州事変をひきおこし国際連盟を脱退しました。軍部・右翼はファッショの道をつきすすみ、38年には国家総動員法を制定し戦時体制が整備され第二次世界大戦へと突入しました。

写真解説

2.昭和初期の教育

解説文

明治のころから天皇を頂点とした国づくりをすすめてきた政府は、全国の学校で〈御真影〉(天皇・皇后の写真)を掲げ、〈教育勅語〉を奉読することを定めていました。国民を皇国の民として教育していく皇民化政策は、とくに沖縄や朝鮮・台湾などの住民にその理念がおしつけられました。天皇を中心とした家父長制確立のため皇民化教育の柱として、意味も理解できない小学校低学年の児童にも教育勅語を暗唱させました。また、宮城(皇居)や伊勢神宮にむかって遥拝も行われ、国民精神総動員実施要綱が決められ、「天皇に忠義をつくし国家のために身命を惜しむな」という〈尽忠報国〉のスローガンが掲げられ、国民を戦争にかりたてていきました。沖縄県でも国民精神総動員沖縄県実行委員会が結成され、3大スローガン(挙国一致・堅忍持久・尽忠報国)を掲げ、運動を実施していきました。

1940年には「紀元二千六百年式典」が国を挙げて取り組まれ、11月10日には東京の宮城前広場に5万人近くの人びとが集まり、全国各地の都市でもお祝いの式典がとり行われ、日本国中が「天皇陛下万歳」の歓声にわきたちました。

写真解説

3.大政翼賛会

解説文

1940年に結成された国民統制組織。日中戦争が長期化するなか、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発するという情勢をとらえ強力な政治指導体制を確立するためにつくられたファッショ的な政治体制。首相を総裁に、知事を支部長にした全国組織として結成され、政治・経済・文化・生活など各面で国民統制を行ったのです。第二次世界大戦に突入していくとその統制は一層強まり、42年には翼賛壮年団が結成され、続いて大日本産業報国会・大日本婦人会・大日本青少年団をはじめ町内会・部落会・隣組などがつづいて結成されました。

41年には沖縄県でも協力会議がもたれ、選挙では翼賛会の人物が当選できるように働きかけたといわれています。末端組織の隣組では10戸くらいの家々をまとめ、出征兵士の歓送・留守家族や遺族の世話・防空演習・国債の消化・貯蓄の奨励・生活物資の配給など国民生活を画一的に統制し、個人の生活まで干渉してゆきました。「ぜいたくは敵だ!」のかけ声のもと、パーマや指輪、卵、しょう油まで戦争遂行のため統制されました。しかし、厳しい監視をかいくぐり“敵”の上に“素”を書き込んで「ぜいたくは素敵だ!」とした日本人がいたことも見逃せません。

写真解説

4.植民地支配

解説文

台湾・朝鮮を植民地とした日本は、本国人に同化させるための政策をとりました。その地の住民の風俗習慣を無視し、学校では日本語教育を実施し住民固有の文化を否定しました。住民の姓名も日本風に改姓する運動(改姓改名運動)が高まり、読みづらい難解な姓名を簡略化していきました。強引な同化政策は、自らの国の歴史や文化を否定され、誇りを踏みにじられた人びとにとって暗くみじめな時代となったのです。

戦線を広げた大日本帝国の軍隊(皇軍)は1941年12月8日の太平洋戦争開戦と同時にマレー半島を攻撃しました。真珠湾攻撃の1時間前には上陸を開始し、石油資源を求めてシンガポールにまで侵攻しました。42年2月にはシンガポールを昭南と命名し、石油などの輸送のための重要な港として確保しました。

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5.移民と戦争

解説文

沖縄県の移民は1899(明治32)年に当山久三が送り出したハワイ移民27人が最初でした。他府県に比べ移民の送り出しが多く、特に大正時代から昭和10年にかけて南北アメリカ大陸など21ヶ国に及んでいました。第一次大戦後は好景気となり、諸工業の躍進、輸出ののびはめざましく、全国的に「成金」が誕生しました。しかし、物価は高騰しインフレが進行したため庶民の生活は苦しくなっていきました。沖縄では砂糖の好景気は長続きせず、庶民の生活は「ソテツ地獄」といわれる程困窮していきました。労働者は、1922年以降は年平均7000人が移民や出稼ぎとして県外に流出しました。主な出先地はフィリピン・南洋諸島と京阪神・京浜地区でした。当時の沖縄県の人口は60万人以下でした。

第二次世界大戦までにフィリピン・インドネシア・シンガポール・マレーシアなど東南アジアをはじめ満州・関東州・朝鮮・台湾・樺太・南洋諸島など各地に移住した人たちは敗戦後引き揚げを余儀なくされ、大変な苦労をして沖縄に帰りつきました。

写真解説

更新日:2026年01月06日