テーマ3:深く -第一次世界大戦と日本の情勢-

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1.戦争景気と戦後恐慌

解説文

ヨーロッパで勃発した第一次世界大戦は、不況でいきづまっていた日本資本主義にとって戦争景気をもたらしました。ヨーロッパの国々の戦乱は生産性も低下させ、植民地支配下にあったアジアへの輸出がとまり、そのすきに日本の物品がアジアに輸出されました。また、連合国から軍需物資の注文が増大し、製鉄・機械・造船・化学工業などがめざましい発展をしました。「船成金」・「鉄成金」とよばれる大金持ちも現れ、三井・三菱・住友などにみられるように日本政府の膨大な軍事費がそれらの軍需工場に注がれ、財閥を中心にした独占資本家が形成されました。

急激な経済の発展は長くは続かず、戦後恐慌・震災恐慌・金融恐慌におそわれ、世界恐慌へとつながつていきました。戦時にはとぶように売れた品物も、戦後は欧米諸国が生産性を回復したことにより、日本国内では物価の高騰という形で労働者の生活を圧迫し、中小企業は倒産し、産業・銀行などは合併され資本は集中していきました。

写真解説

2.農村社会の疲弊と民衆

解説文

農産物の価格は戦後恐慌によって暴落し、販売は独占的購買組織にしばられ、工業製品の価格と大きく開いていきました。農民の生活は窮迫し膨大な借金と、青田売りが急増し、寄生地主に対しての小作料引下げ要求の争議も増え、日本農民組合が結成され農民運動も全国的に広がっていきました。しかし、全国の耕地面積は減少し、貧農や農家の二・三男が工場労働者として都会で生活するようになり、都市に人口の急増をもたらしました。労働者たちは労使協調を主とする「友愛会」に組織されましたが、労働条件の改善を要求してストライキでたたかう件数も増えていきました。

このころ婦人運動が組織され、治安警察法第5条(婦人の政党加入と政談演説会主催および参加禁止)の修正運動がおこり「新婦人協会」が結成されました。女子高等教育の拡充男女共学・母性保護・婦人参政権などの要求も掲げられました。

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3.普通選挙法・治安維持法

解説文

1923年2月、東京で約10万人が普通選挙法(普選)を要求して大示威行進しました。国民の幅広い層に運動は広がっていき政府も普選がさけられなくなってきました。政府は議会に過激社会運動取締法・労働組合法・小作争議調停の三法を提出し、支配者階級が普選によって不利益にならないようにしようとしました。労働者階級は、政治的・国際的連帯の自覚を認識し、婦人たちは最初の「国際婦人デー」の集会を東京でひらきました。また、学生たちは軍国主義教育に反対し学生大会をひらき、各大学で社会科学研究会がつくられました。

政府は治安警察法第28条で、日本共産党の指導者を多数検挙し打撃を与え、国民に恐怖をうえつけました。その年(23年)の9月におこった関東大震災の混乱に乗じ、朝鮮人が各地で暴動をくわだて、その背後に社会主義者が変革をくわだてているというデマを通信所をつうじて全国に伝えました。朝鮮人・中国人の多数と労働組合の指導者らが殺害されました。政府はそれまで労働者階級の反対で成立させることができなかった過激社会運動取締法の内容を、治安維持法として緊急勅令で公布しました。そのため震災の混乱によって虐殺された人々の記事が新聞に掲載されませんでした。こうした状況下で労働運動は右傾化することで生き延びようとする一方で、日本を「世界の大小国家の上に君臨する最強なる国家」とすることを主張する右翼団体のうごきも活発になりました。

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4.大正デモクラシー

解説文

明治33年の大日本帝国憲法では天皇に絶対的な権限を認め専制体制をつくり民権運動など反政府勢力をはばんできました。大正時代になると美濃部達吉の「天皇機関説」が発表され、天皇は国家の最高機関としての統治権をもつにすぎず、主権は国家にあると主張しました。帝国憲法に妥協しながら絶対君主制を少しでも立憲君主制に近づけようとする思想は議会政治・政党内閣制を要求する市民たちの間に広まってゆきました。自由主義的思想が国民の間に広がり「民本主義」とよばれました。人民に主権があり、人民のために政治はおこなわれるべきというデモクラシー思想(普通選挙・政党内閣制をかかげた民本主義の思想)は都市の中産階級の間に共感を持たれ、広がってゆきました。1917年にロシアで社会主義が勝利するとシベリア進出をねらう日本は翌年出兵し、連合国も対ソ干渉の軍事行動を開始しました。ソビエト人民の抵抗で敗北した日本は莫大な戦費を使い、国内では米の不作と買い占めで米価が値上がりし、庶民の手に届かなくなりました。富山県の沖仲仕(港湾作業員)をしていた漁村の女性たちから始まった米騒動は全国に広がってゆきました。大衆組織も政党の指導もなく無名の人びとが立ちあがった歴史的な大闘争となりました。当時の内閣は総辞職し、政党内閣を産み出しました。またロシア革命の波は日本の労働者や植民地である朝鮮にも影響をおよぼしました。(三・一蜂起)

米騒動ののち日本の労働運動は発展し、労働争議・小作争議の件数も急速に増えてゆき、組織化されてゆきました。民主主義を求める学生や婦人の組織も活発になりました。三万人の会員をもっていた「友愛会」は1919年の大会で「大日本労働総同盟友愛会」に改め、国際労働機構(ILO)の提案に沿い労働組合の自由・最低賃金制・男女同一労働同一賃金8時間労働・夜業禁止など労働者の切実な要求20項目を掲げました。また女性たちも「新婦人協会」を組織し女性の政治参加を禁止していた治安警察法第5条を改正させました。

戦後恐慌の波は日本中へ波及し株式が大暴落。生糸・綿糸などの価格も三分の一に下落し、銀行・会社なども大打撃をうけ、工業・鉱業の生産高は減少し輸出高も40%減となりました。資本家は賃下げ、首切り、工場閉鎖できり抜けようとしたため労働争議も減少しました。そんな中で第一回のメーデー(労働者の祭典)が東京の上野公園で行われ、「1万人の労働者が集まり万国の労働者とともに労働階級の解放のため」に闘うことを宣言し警官の検挙に抗してデモ行進しました。

1921年当時の首相原敬が東京で暗殺された直後ワシントン会議が開かれ日本は軍縮を余儀なくされ国内の世論も反軍国主義の機運がもりあがってきました。社会主義運動が高まる中「日本農民会議」が結成され全国で活動が活発になっていきました。

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5.ソテツ地獄

解説文

第一次世界大戦の戦後恐慌にはじまる不況は、全国におよびましたが、農産物の価格の暴落は、とくに農村社会に大きな打撃を与えました。長期不況の影響は沖縄においても深刻で、生産基盤の弱い県経済は壊滅的な状況におかれました。県民の生活は困窮し税の滞納や教員・吏員の給料の遅配と不払い、銀行の統廃合、出稼ぎ・移民の増加、欠食・欠席児童がふえ、子・女子の売買もおこなわれました。食べる物がなくなった家では、飢えをしのぐため毒性の強いソテツまでも食べている窮状が『沖縄朝日新聞』に掲載され「ソテツ地獄」として内外のジャーナリズムに伝えられました。一家が同じ食物を口にするため、毒にあたると一家全滅になり、その悲惨さが人々の心に深くしみこんだのです。

恐慌は民衆を困窮に追込みながら、経済においては近代的に再編されていきました。製糖工場は近代化され、農村では階層分化をより一層顕著にし、地主はより多くの土地を持つようになりました。その一方で出稼ぎ・移民をする人々も増え、労働市場は拡大され県民も県外・海外に移住し、さまざまな社会運動や思想も流入することになりました。

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更新日:2025年12月22日