テーマ2:広く -帝国主義の展開-
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1.大日本帝国憲法
解説文
1889年2月、明治政府が制定・公布した憲法で明治憲法・旧憲法ともいわれます。明治新政府は自由民権運動が広がるなかで国会開設を迫られ、憲法の制定も急がれていましこのころ民間でも憲法草案がさかんに提出されましたが、その中でも土佐出身の植木枝盛の私案憲法「日本国国憲案」は人民主権・普通選挙権(婦人参政権を含)などは進歩的で政府に大きな刺激をあたえました。政府は国会開設までに憲法を制定するために、欧米の憲法を学びに伊藤博文たちを派遣しました。伊藤はドイツ・プロイセンの立憲君主制が日本の国体に適合するとしました。帰国後秘密裏に憲法草案は作成され、天皇と内閣に大きな権限をもたせた絶対主義政権は日本の国民の声をとざすかたちで誕生しました。「大日本帝国憲法」の成案は国民の代表がいる議会で審議しないまま、枢密院をへて、天皇が人民に憲法をあたえるという欽定憲法として国民のまえに示されました。1947年5月3日、「日本国憲法」が施行されるまで一度も改正されませんでした。
写真解説
2.教育勅語
解説文
1890年10月、日本の教育の基本理念として発布された勅語(天皇のことば・天皇が臣民にたいして発表した意思表示)。1948年、国会でその失効が確認されるまで、日本の教育政策や教育内容のありかたを規制してきました。
明治の欧化主義・自由民権思想の高まりのなか、儒教的皇国主義を掲げる人たちから〈徳育〉の方針がしめされ、明治政府は文部省に草案作成を命じました。法務局長官井上毅・宮中顧問元田永孚・学者の中村正直らによって作成された草案を骨子に成文化され、天皇の許可を得て発布されました。
教育勅語は、天皇への忠義と、親への孝行を道徳の基本とし「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉シ」として、いったん戦争が起これば命を投げ出して天皇のために戦うことを国民に強要し、天皇を絶対的な主権者とした国家への忠誠を国民に誓わせるものでした。
文部省は教育勅語を全国の学校に下付し、祝祭日の儀式や入学・卒業の式典などで奉読式を行うことを命じ、御真影(天皇・皇后の写真を敬っていう語)とともにその取り扱いは厳重におこなわれました。国民に皇民化教育を徹低させていくために、教育勅語はその内容も存在もおおきな役割を果たしたのです。
沖縄県の各学校にも、教育勅語と御真影は下付されていましたが、1944年十・十空襲後、御真影の守護を目的として教員たちを中心に「御真影奉護隊」が組織されました。沖縄戦では、各学校の御真影は集められ、沖縄本島では羽地村大湿帯の山中の洞窟に移されましたが、沖縄戦の組織的戦闘が終決した前後に焼却されました。
写真解説
3.国会開設
解説文
第一回衆議院議員選挙は、1890年に行なわれました。300議席のうち170議席を反政府勢力がしめていました。野党の5派(自由党・愛国公党・大同倶楽部・立憲改進党・九州同志会)は過半数をこえたので連合をつくろうとしました。第一次山県有朋内閣はこれをさまたげるため、「集会及政社法」を制定しました。この法律では、集会は48時間前に届け出を義務づけ、政談集会は屋内で、政社間の連絡と支部の設置を禁止し、軍人・警察官・教員・学生に女子などが政治集会へ参加することを禁止しました。
第一回帝国議会で、山県有朋首相は「主権線」(国境)を守るだけでなく、国境の安全を確保するための地域を「利益線」(韓国など)として、軍事費に巨額な予算を要求し予算案の31%をこえていました。有権者のほとんどが地主層でしたから当選議員も60%が地主でした。政費を節減して地租を軽減し、官吏の定員・俸給と軍備拡張費を減らすことを要求しました。これにたいして政府は、野党の立憲自由党・板垣退助ら土佐派の議員20余人を買収し削減の幅を小さくとどめたのです。自由民権の旗を守りぬこうとする中江兆民は、議会はもはや「うじ虫どもの陳列場」と抗議文を出して議会を去りました。
写真解説
4.官有物払い下げ事件
解説文
富国強兵をおし進めていた明治政府は、西南戦争(1877年)で戦費を使い財政の危機に苦しんでいました。当時大蔵卿であった松方正義はデフレ政策をおしすすめ、地方税をふやし国道建設などを地方税でまかないました。さらに、酒税・煙草税の税率をあげ、新たに間接税として醤油税・菓子税の税率を設けました。政府予算の歳出をすえおくため、軍事工業をのぞいた官営の工場・鉱山を三井・三菱・古河などの政商に払い下げました。富岡製糸場は投下資本が31万円かかりましたが、12万円で三井に、阿仁銅山の建設費は167万円でしたが、33万円で古河に払い下げになりました。
1882年には日本銀行を創立、国庫金の取扱、銀行券の発行などを行い経済・金融の中枢機関になりました。しかし、物価は下がり84年には米価はそれまでの半値となり、農村は深刻な不況におちこみました。輸入品の綿花・砂糖などに保護関税がかけられず(不平等条約)外国の安い商品におされ、土地を質に入れて高利貸や地主・豪農から借金して税を払う農民たちもおおく、なかには土地を手放す農民もいました。農村で発達した家内工業や小さなマニファクチュアの多くがこのころつぶれましたが一方で、政府の保護をうけた政商や地方の有力企業は大きくなり資本主義の土台がためが進み財閥へと発展していきました。
1890年ごろになると、資本主義のもとでの過剰生産がおこり、大凶作と重なり各地で「無職無銭」の窮民がふえ、米騒動がおこりました。工場労働者の三分の二は製糸・紡績に働く女子労働者でしたが、低賃金で1日12時間以上の労働を強いられていました。
写真解説
5.風俗改良運動
解説文
明治30年以降、沖縄県民を日本国民として同化させるために風俗・慣習を改め大和風にする運動が明治政府の国策として展開されました。それまでの旧慣温存政策からの性急な改良運動は県民の生活実体とかけはなれ、社会に定着しませんでした。〈琉装から和装へ・標準語励行・ユタやハジチの禁止・行事の簡素化〉など、日常生活における生活改善は農村や都市の庶民に要求されました。土地改良事業が進み徴兵令が実施されるなど沖縄県は日本の中央集権国家体制に組み込まれていきました。
徴兵制(1899年)・沖縄県間切島制(1899年)土地整理(1899年)が実施され、社会の変革は大きく、特に日露戦争以後は皇民化教育がより一層徹底され地方改良運動が推進され運動が活発化していきました。〈風俗改良会〉の運動を組織した地方もありました。1899年首里小学校の女教師久場ツルと一部の女生徒が、琉装から和装へと服装を変えたことは、当時の話題となり、新聞にも掲載されました。
沖縄県を日本の中央集権体勢国家に組み入れようと生活改善などを強制しましたが、明治政府の同化政策はあまりにも性急すぎて県民の生活実体と結びつきませんでした。














