テーマ1:深く -琉球処分-

1.首里城

解説文

12世紀ごろになると、沖縄各地にあらわれた有力者(按司)たちは集落間における抗争を繰り返しました。各地で統率者・支配者が権力を持ち、沖縄本島では、城塞としてのグスク(城)もより強固になっていきました。14世紀に入るころになると三山時代(中山・北山・南山)といわれる三大勢力が支配する時代になりました。1429年尚巴志が三山を統一し、首里城を王府として琉球王国(第一尚氏)を建国しました。その後、尚円王が第二尚氏王統をひらき、約450年間の琉球王朝時代が続きました。首里城を拠点とした歴代の国王は近隣諸国との友好貿易をすすめ、薩摩侵入・琉球処分までアジアの一国として存続しました。第二次世界大戦沖縄戦で壊滅し、戦後再建されました。

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2.旧慣温存

解説文

廃藩置県の通達(1879年)で沖縄県が設置されると、明治政府は「諸制度は、特に改正を命じたもの以外すべて従来通り」の方針をうちだし、近代的改革が推し進められた〈内地〉とは異なり、旧慣(昔からのしきたり)の温存政策をとりました。地方制度では、旧琉球王国で間切(まぎり)・島と呼ばれていた行政単位を〈間切〉〈村〉と改め、間切・村長を中央政府が任命し、各間切に警察署・郵便局・小学校を設けました。しかし、全国で実施されていた徴兵令は実施せず参政権も認めていませんでした。琉球処分後しばらくの間、農民・民衆にたいして、王国時代におこなわれてきた社会経済政策や人頭税制度を継続させる〈旧慣温存〉の方針は、形式的には琉球王国の滅亡と近代沖縄県の成立でしたが、社会・経済的には旧琉球王国のままでした。沖縄県民を経済的に抑圧し、反抗する意識を封じ社会の変革をはばみました。

旧慣温存政策によって沖縄は、本土に対し従属する地位を強いられてきましたが、当時の支配層(旧士族階級)にとっては、身分を保つことができたり公的機関の職を独占できるなど、彼らの利益が保護されるという側面もありました。このため、彼らのなかには自由民権運動を危険視し、その運動の流れをうけた参政権獲得運動・人頭税廃止運動などを妨害する動きをする者もいました。しかし、近代的な民主主義・平等の理念に目ざめた謝花昇(じゃはなのぼる)などの旧士族出身の若い志士たちは自分たちの身分的利益を捨て、農民を含む県民の権利・平等・自由のために闘いました。

1899(明治32)年に〈土地整理法〉が公布され、〈地租条例〉によって地租改正(土地整理)がおこなわれることになりました。これにより旧慣温存制度が完全に撤廃されたといわれています。

謝花昇は自由民権運動を推進した一人で、農村青年たちに影響を与え、人頭税廃止運動を先頭に立ってすすめました。しかし、政府や県などからの弾圧が激しく、彼を支持していた旧士族出身者たちも次々に運動から離れていき、精神的苦痛が重なり精神に異常をきたし36歳という若さで生涯を終えました。沖縄の近代化のために尽力した彼は、自由と平等を理念とした県政の確立を目ざしました。

謝花の死後、彼が願った自由・平等な県政がつくられたわけではありませんでした。日露戦争後には徴兵令が実施され(1898年)、人権も自由もない抑圧された県民として太平洋戦争まで続きました。彼の願いが本当の意味で満たされたのは戦後、日本国憲法が施行され、基本的人権が保障されてからといえます。

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3.沖縄の自由民権運動

解説文

沖縄の自由民権運動は謝花昇を中心にして、当山久三や神谷正次郎らが〈沖縄倶楽部〉を1899年に結成し運動がすすめられました。『沖縄時論』を発行するなどして農村青年たちに影響を与えました。運動は参政権の獲得を目ざし、従来の旧慣温存政策を批判し日本帝国憲法を沖縄にも適用するよう国会へ建議しました。彼らの掲げた理念は「自由は人民の本来の権利である。この権利をそこなうような規則や法律は許されない」でした。

日本が、日清戦争(1894~95年)、日露戦争(1904~05年)と勝利し大陸への侵略を広げていくことで、全国の地主・資本家層や知識人たちが国家主義的傾向を強め、政治的自由や権利の拡大を要求する自由民権運動から離れていくなかで、彼らは自由民権運動を継続しました。日露戦争(1904~05年)に勝利した日本は中国・朝鮮への侵略を推進、国際的地位を高めたことは国内の運動や政党の足並みをみださせました。政府の帝国主義的侵略政策に批判的であった政党もその方向へ向かい、自由民権運動は沖縄の一地方でしか展開できませんでした。

彼らの運動には、沖縄の民衆を旧慣温存政策から解放し、日本国民として民主主義・平等の権利獲得を目ざしてきたという側面と、自由を勝ちとったあとは日本軍国主義のもとに日本国民として統合されていったという側面がありました。

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4.人頭税廃止運動

解説文

○人頭税

15歳~50歳までの男女(旧慣では男性を丁(ちょう)、女性を口(こう)といいました)に課された租税。琉球王朝時代から宮古・八重山におこなわれ、明治政府も旧慣温存政策として継続しました。首里王府は宮古・八重山を直轄地として厳しい年貢を課し、本島では間切単位(のちの村)に年貢を課し各家から米や布などを納めさせましたが、宮古・八重山には一人一人に貢租を割り当てました。壮年男子は粟を、壮年女子は上布(苧麻の繊維で織られた麻織物)を納めました。琉球処分後、土地整理がおこなわれるまで継続、人頭税が廃止された〈明治36年〉まで、人々は苛酷な労働を強いられました。宮古・八重山の農民の生活は苦しく、重税にあえぎ、怠け者・病弱な者とみなされると、罰せられました。悪税によって、間引き・堕胎など悲劇が起こりました。

○中村十作

宮古島西原村の下級役人の家に生まれた中村は、国税の人頭税が、住民を苦しめていることを税務署長や県当局に願い出ましたが聞き入れられませんでした。自費で上京し、大隈重信や板垣退助などを訪れ窮状を訴えましたが、実現しませんでした。伊沢修二文部大臣に直訴し、第13議会で質問書が提出され、八重山の城間正安らの請願も議会で採択されました。それを受けて明治政府は宮古・八重山に対し土地整理事業をおこない、従来の人頭税を地租に切り換えたため、明治36年に人頭税は廃止されました。

中村十作は、宮古における謝花昇のような存在であり、彼の行動によって人頭税が廃止されたといわれています。土地整理後、土地を持たなかった農民たちは地主に隷属する小作人となり生活を続けましたが、人頭税が廃止されたことは画期的な出来事でした。

○城間正安

八重山の城間正安は、島の人々が悪税で苦しんでいることに憤り、自費で上京し衆議院議員に請願書を提出しました。衆議院は満場一致で採択し人頭税は廃止されました。人頭税廃止には謝花昇も尽力しています。沖縄県知事に人頭税廃止を要請し、県会で審議されましたが否決されました。謝花は中村十作らと一緒に大隈重信を訪ね、琉球の窮状を訴えました。謝花の精神病発症後は、高嶺朝教が中村・城間とともに運動を続け、ついに明治36年、人頭税が廃止されました。

自由民権運動から人頭税廃止運動へと続いた流れは、支配層と対立し弾圧されながらも、民衆のための運動を展開、近代沖縄の黎明期における指導者たちの活動は、自由を求める人々の範となりました。

宮古・八重山の人頭税廃止と沖縄本島の土地整理をすすめたことで、沖縄は近代化への道を急がされました。これらの改革(人頭税廃止・土地整理)によって農民の暮らしは楽になったのでしょうか。人頭税は廃止されましたが、土地を持たなかった農民は、農地を地主に借りて小作人となり厳しい小作料を納めなければなりませんでした。経済的に苦しい生活は続き、改革の成果はあまりみられませんでした。しかし、人間の体を基準にした税が廃止されたことは、大きな成果でした。

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5.土地整理事業

解説文

明治政府は地租改正(1873〜81年)を全国で実施し、土地制度と租税制度の改革を行ないましたが、廃藩置県(1879年)まもない沖縄県では旧慣を温存することで、旧支配層の抵抗をやわらげる施策がとられました。そのため、地租改正は実施されませんでした。沖縄の土地制度は王国時代から残された〈地割制度〉でした。

琉球王府時代、土地は王府が所有し、人々に耕作の権利を与え、数年ごとに土地の割替えをおこないました。それを〈地割制度〉といい、農民は与えられた農地(地割地)から租税(年貢)を納めました。明治期になっても地割制度は残り、地租改正をうけなかった沖縄県は税収が不足し、地方財政は苦しくなっていました。自由民権運動の指導者たちは、本土並の地租改正(土地整理)を実施することを政府に求めました。やがて、日清戦争の戦後処理として台湾を日本の領土としたことで台湾への軍事的拠点として、沖縄を重要視するようになった政府は、それまでの旧慣温存策を改めました。1899年、土地整理法を公布し、沖縄の地租改正をおこないました。

土地整理事業がおこなわれると、従来の耕作者である農民のうち、地租を納める能力のある者だけが正式な土地所有者(地主)になりました。地租を納める能力のない人々は、土地を手放し小作人となりました。その結果、地主が増えるとともに、土地を持たない小作農民が増え、地主が増えた分、国の租税収入も増えました。国の財政面では増収となりましたが、住民の生活を向上させるものではありませんでした。土地整理事業がもたらしたものは、寄生地主の増加と零細農の増加でした。多くの農民たちは小作人として高い小作料を地主に納め、困窮した暮らしを続けました。日露戦争・第一次世界大戦と続く戦争で不況が深刻になると、生活に耐えられなくなった人々は海外へ移民し、都会へ出稼ぎに行きました。

明治政府は近代国家体制を整えていくために土地制度と税制を改革し、安定した税収をあげることができるようになりました。しかし、それは地主と小作という階層を生み出し、農民の困窮をもたらしました。地租改正・土地整理事業は、全国的な近代的改革であり、農民のための土地改革ではありませんでした。

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更新日:2025年12月22日