テーマ3:広く -第一次世界大戦と日本の情勢-
- ホーム
- 常設展示室
- 第1展示室:読谷村と沖縄戦
- より広く
- テーマ3:広く -第一次世界大戦と日本の情勢-
1.日英同盟
解説文
1902年に日本とイギリスが締結した同盟条約。以後第一次、第二次、第三次と継続更新され20年に及びました強大なロシア軍を牽制し、イギリスが中国に対しての、日本が朝鮮・中国に対しての利権擁護のため結んだ相互援助協約。
1905年改定され防御を旨とした同盟から攻守同盟にすすみ、有効期間を5年から10年へ延長、適用範囲を拡大し、インドも含めました。東アジア及びインド地域の平和の確保、領土権の維持など日英両国の利益を守ろうとしました。極東における国際関係は対立が続き、日英同盟も1911年に再改定されました。日本が第一次世界大戦に参戦したのもこの条約が結ばれていたからです。
太平洋方面における権利を尊重することを確認した日英米仏の4か国条約の発効によって、1922年日英同盟は廃棄されました。
写真解説
2.第一次世界大戦
解説文
1914年7月、オーストリアがセルビアに宣戦布告し、ドイツ・イギリス・フランス・ロシアなど主な国が戦争に巻き込まれ、ヨーロッパから世界戦争に拡大しました。オーストリアの皇位継承者がセルビアの青年にバルカン半島で暗殺されたことが戦争の始まりでした。イギリス・フランス・ロシアの協商国(連合国)とドイツ・オーストリアの同盟国が敵対し、日本(14年)やアメリカ(17年)が参戦しました。18年ドイツ軍は全戦線で敗退し大戦は終決しました。この大戦ではじめて戦車・航空機が使用されるようになりました。毒ガスはドイツ軍が使用、戦果をあげることはできませんでした。
日本は東洋における利権獲得のため参戦、中国の山東半島に上陸しドイツ軍を降伏させ、赤道以北のドイツ領南洋群島を占領しました。不況でいきづまっていた日本の経済は大戦で軍需物資の注文が増え、にわか成金があらわれ、製鉄・機械・造船・化学工業などはめざましく進歩をし、資本主義経済は急激に発展しました。都市に人口が集中し労働者が増え、教師・新聞記者・大企業の勤労者など「中間層」も増え、「職業婦人」などの職域も広がり、あらたな社会問題が発生しました。
写真解説
3.対華21カ条の要求
解説文
第一次世界大戦が勃発して、列強国の関心がヨーロッパに集中しているすきに、日本は「大正新時代の天祐(天のたすけ)」として中国のドイツ領山東省を制圧し、1915年(大正4年)、日本政府(大隈重信内閣)は秘密裏に中国に対して5項目からなる「21カ条の要求」をつきつけました。その要求は1) 山東省におけるドイツの利権をすべて日本がうけつぎ、山東省に鉄道をつくる権利を日本に与えること2) 旅順・大連地区の租借権と南満州・安奉両鉄道の租借権をさらに99年間延長し、東部モンゴルを日本の勢力圏とすること3) 南満州及び東部モンゴルにおける鉱山の採掘権を日本が独占すること4) 中国の沿岸の港湾と島々を外国に割譲したり貸与しないこと5) 中央政府の政・財・軍に日本人顧問をおく、中国の警察に日本人を採用、中国軍の兵器の大半を日本から輸入するか、兵器を取り扱う役所を日中合弁にすることなどでした。この要求は「満蒙」における日本の既得権を広げ、中国を日本の支配下におこうとする帝国主義日本の露骨な政策でした。
日本の要求に対して、中国の人民はいきどおり、各地で日本商品の排斥など激しい運動がおこりました。また、英・米両国政府がとくに5号にはつよく抗議したことと中国の民族的な抵抗運動におされ、日本政府は5号を撤回しました。兵力を増強した日本は、その武力を背景に中国政府にせまり要求を受諾させました。中国はこの日を「5・9国恥記念日」として、抗日運動は高まっていきました。
写真解説
4.パリ講和会議(ベルサイユ条約)
解説文
1919年フランスのパリで、米・英・仏・伊・日が主体になって開かれた会議。第一次世界大戦後の帝国主義体制の再編成で、アジア・アフリカの反植民地主義の抑圧とドイツの戦争責任への賠償金・全植民地の剥奪などが締結されイギリス・フランスなどに有利に進められました。ウィルソン(米)の主張した「14か条の原則」は理想主義としてゆがめられましたが、「諸国家の連合組織形成」と「民族自決」の原則は実現しました。
ベルサイユ条約によって創設された国際平和機構である「国際連盟」は国際協力を促進し、国際の平和と安全を維持することを主目的としたもので、全世界の国と機関を目標につくられた国際平和機関でした。しかし、アメリカが加盟しなかったことや中国が調印を拒否したこと、ドイツに大きな不満を残したことなどで国際連盟の権威は尊重されませんでした。極東および環太平洋の問題はワシントン会議(21・22)で諸条約が締結され、第一次世界大戦後のこの地域の国際秩序をワシントン体制とよびました。











