テーマ1:広く -琉球処分-
- ホーム
- 常設展示室
- 第1展示室:読谷村と沖縄戦
- より広く
- テーマ1:広く -琉球処分-
1.明治政府の誕生
解説文
日本が鎖国を続けていた時代、世界では新しい時代が始まっていました。ヨーロッパ諸国では、封建的な旧制度を改革し、産業革命による近代資本主義経済の確立にむかっていました。機械制大工場で商品を大量に生産し、その商品を売りさばく市場が必要でした。また、工場で使う原料の確保のため、全世界に進出していきました。
19世紀になると、清国(中国)はイギリスとのアヘン戦争(1840 〜42年)で大敗し、5港を開港・香港をイギリスに割譲しました。アメリカは西海岸のゴールドラッシュにわきたっていたころ、東インド艦隊司令長官ペリーが4隻の艦船で琉球に上陸(1853年)、江戸幕府に開国をせまる足掛かりとした後浦賀に来航幕府に開国をせまりました。翌年、再び来航したペリーに対し幕府は伊豆下田・北海道(当時蝦夷)函館の2港を水や食料補給の寄港地として開港することを約束し、日米和親条約を結びました。こうした情勢のなか、これまで幕府の政治に参加できなかった薩摩・土佐などの外様大名や、いっさい政治の外におかれていた天皇や公家たちも政治に意見を述べるようになっていきました。
1858年に締結した日米修好通商条約は、日本に領事裁判権がなく(治外法権)、関税の自主権もなく主権をおかす不平等条約でした。欧米諸国の侵略の危機を感じた有力諸大名たちと、改革派の下級武士たちは豪商とむすび、幕府独裁に反対する勢力として、その動きは活発になっていきました。近代的な統一国家をつくるため、武士だけでなく農民や町人も力をあわせ、1868年、明治新政府が誕生しました。
写真解説
2.国境の画定
解説文
明治政府は、それまで明確でなかった国境を画定するため、近隣諸国との外交を進めていきました。北方の樺太(サハリン)と千島列島には、日本とロシア人などが雑居していました。当時、駐露公使であった榎本武揚はロシアと交渉し、1875年「樺太・千島交換条約」を結び、日本が樺太全島をロシアにゆずり、ウルップ島より北をふくめた全千島列島を日本が領有することが決められました。西の九州と朝鮮半島の間にある対馬は宗氏から朝鮮との外交権をとりあげ、南の小笠原諸島はその領有と統治を各国の公使に通告しました。
南西の沖縄は、当時琉球王国を形成し清国(中国)と冊封朝貢関係にありました。1871年におきた台湾遭害事件で琉球国の主権は日本国にあることを主張し、翌年、琉球藩を設置しました。74年台湾に出兵・占拠し、同年10月日清両国間で北京議定書を締結し日本政府は賠償金を受け取り、台湾から全軍をひきあげました。議定書には、琉球の民を〈日本国属民〉と表記し、琉球が日本の版図にあることを日清両国が認めたことになりました。琉球の人々の頭のうえを飛び越して条約は結ばれたのです。79年には軍隊と警察を率いて首里城を占拠し、沖縄県の設置を通告しました。
写真解説
3.台湾遭害事件
解説文
1871年、宮古島の年貢運搬船(役人ら69人乗船)が積み荷をおろし那覇からの帰路台風に遭い台湾南部に漂着、54人が原住民に殺害されるという惨事がおこりました。3人は溺死し、12人は現地人に救助されました。この殺害事件に対して、1874年、日本政府は西郷従道(隆盛の弟)を台湾蛮地事務都督に任命し、3650余人の兵をもって台湾に出兵させようとしました。しかし、米・英・露などの公使から干渉され、政府は征台中止をきめました。政府の出兵中止命令に従わず、西郷は独断で軍艦4隻を率いて出港し、台湾に上陸し現地の住民を討伐しましたが、マラリアに感染したり、原住民の抵抗などにより戦闘は困難となりました。政府は同年10月、大久保利通を全権大使として北京におくり、日清(中国)両国間で北京議定書を締結しました。日本国は清国に50万両(10万両は遭難者にたいする見舞金)の賠償金を支払わせ、琉球の民を〈日本国属民〉と表記することで、条約上琉球が日本の版図に入ることを示し、撤兵したのです。日本国内で行われた廃藩置県(1871年)以後も琉球は、従来どおり清国との朝貢関係を維持していましたが琉球王国を琉球藩(1872年)とすることで、台湾出兵を正当化させ、清国に琉球を日本の領土として認めさせたのです。近代日本が領土拡張へ海外出兵をした最初のことです。
写真解説
4.脱清人・分島増約案
解説文
脱清人(だっしんにん)
明治新政府は国境画定をすすめながら、南西にある琉球王国は薩摩藩から新生なった鹿児島県の管轄下においていました。政府は台湾事件(1871年)で琉球を日本の所轄として明らかにする好機としたかのように、琉球王尚泰に〈維新慶賀使節〉を上京させるよう促してきました。73年、王府は伊江王子を正使として4人の慶賀使節を派遣しました。一行が天皇に謁見したさい「国王尚泰を藩王に、琉球国を藩とする」という詔をうけましたが、琉球側は、鹿児島県から天皇に替わっただけであると認識していました。すでに日本では廃藩置県によって藩制はおこなわれていませんでしたが、琉球と清国(中国)の歴史的つながりを考え、政府はすぐには県にしませんでした。琉球では王国が安泰だと思い喜んでいた人たちもいたようです。
74年、琉球藩の管轄が外務省から内務省に移されると、内務郷大久保利通は琉球処分官に松田道之を任官し琉球に派遣しました。75年、松田は王府の高官に政府の琉球処分方針7項目を伝えました。清国との冊封・朝貢関係の禁止、藩制を日本の府県に準じて改正、謝恩のため藩王の上京などが言い渡され、王府は事の重大さに驚き、処分にたいして政府に嘆願と交渉を繰り返しましたが、受けいれられませんでした。帰藩を命じられましたが、駐日清国公使に窮状を訴えたことで、琉球問題は日清間の外交問題に発展しました。琉球藩吏たちは、かって琉球と条約を結んだ国々の英・米・蘭などに密書を送り、琉球国の危機を訴えたので波紋は広がりました。
政府の琉球処分に反対する琉球の士族たちのなかでも動きが活発となり、清国に政治亡命(脱清亡命)した人々もいました。幸地朝常や林世功らは清国に窮状を訴えましたが、幸地の足取りは不明のままです。林世功は後に分島増約案が清国との間ですすめられていることを知り抗議の自殺をとげました。これら清国に亡命した人のことを脱清人とよんでいます。
79年、政府は4年間かけた琉球処分に結着をつけるため、軍事力や警察権力を背景に首里城で琉球藩を廃して沖縄県を設置、首里城を明け渡し藩王は上京することなどを言い渡しました。沖縄県設置後も、琉球王国復活のため清国政府に請願を繰り替えしました。浦添朝忠ら42人が清国へ亡命し請願をしましたが、その足取りは不明のままです。
分島増約案
世界漫遊中のアメリカ前大統領グラントが清国に立ち寄ったのは、琉球処分が強行された1879年の5月でした。清国政府は駐日公使から、日本が琉球に対して進めていた処分問題の報告をうけ、日本政府に抗議していましたが、日本政府は内政干渉だとしてうけつけず、この問題はゆきづまっていました。清国はグラントに琉球問題の調停を依頼しました。来日したグラントは琉球問題の解決のため日本政府に〈分島増約〉案をしめし、話し合いで解決することを勧めました。この案は、宮古・八重山を清国に引渡すかわりに、日清修好条規を改正して、欧米なみに清国国内で通商の権利を得ることでした。日清両国で妥協をみて調印を待つだけでしたが、清国政府はこれに調印せず、この案は成立しませんでした。調印されていれば、日本の国境は那覇の南西に引かれ、宮古・八重山の人民や土地は清国に管轄が移されるところでした。当時の沖縄の県民も、日本の国民も全く知らないところで交渉がおこなわれていたのです。










