屋良朝苗(2)

10.主席公選実現までの長い闘い

解説文

戦後沖縄は行政的に沖縄本島・宮古・八重山・奄美大島の四群島からなっていて、それぞれに知事がいました。1950年に知事は公選制になり、52年の3月まで続きました。4月から四群島が合併し琉球政府となり、主席は軍政府による任命になりました。主席を公選制にと願う県民の運動はこのころから始まっていました。日本復帰・国政参加・渡航の自由・裁判権の回復の運動は主席が任命されるたびに一層激しくなっていきました。基本的人権の回復を願い、自分たちの首長は自分たちで選ぶという自治権回復の運動だったのです。

それまで、異民族支配のもとで、さまざまな苦しみを経験してきた県民にとって「即時無条件全面返還」は悲願でもありました。戦後も20年たった65年ごろから祖国復帰運動がもり上がり、人権・自治権拡大、基地撤去などの県民要求が高まりました。67年11月佐藤・ジョンソン首脳会談の共同声明に基づく日米琉諮問委の設置、主席公選の動きが始まりました。軍事優先に進められる軍政府の圧政下におかれ、人権さえ守れなかった県民にとって自らの意志で主席を選ぶことができる時がきたのです。その革新側の候補者に屋良朝苗が選ばれました。県民の悲願であった公選主席の選挙は、島中が激しく燃えました。あの強大なアメリカに打ち勝つことが出来るのだろうかと不安感と悲壮感が交錯しながらも屋良への支持は広がっていきました。選挙は教え子の西銘順治とのあいだで師弟のあらそいになりました。革新勢力が一つにまとまり保守派の「イモ・ハダシ」論を打ち破り、屋良主席が誕生しました。

当時はベトナムへむけて、アメリカ軍の戦闘機が県民の頭上を飛び去り攻撃を行っていました。砲弾に追われて逃げ惑うベトナムの民衆の姿には、沖縄戦でアメリカ軍の砲弾で殺戮された県民の姿が重なっていました。戦争にかかわるものには土地を提供したくないと反戦地主たちも動きはじめました。

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11.公選主席として

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教職者としての道を歩き続けたいと思いながらも、多くの人たちの願いに応えて主席選挙に出馬し、当選した屋良は政治家としての第一歩を踏み出したのです。全県民的立場をモットーに、老いも若きも全ての人々が戦後の異民族支配から脱却しなければという思いの中で暮らしていること、政治を県民の手に取り戻すことを第一としたのです。一糸乱れぬ革新共闘の結束と「励ます会」に結集した人々の献身的協力、本土からの支援などさまざまな人たちが支えとなり、本土復帰を望む主席が1968年11月に実現したのです。

主席となった屋良には行政府の体制を固め、本土政府やアメリカ軍との話し合いが待ち受けていました。アメリカ軍はアンガー高等弁務官を更迭し後任にランパート中将を沖縄に送りました。アメリカ軍は「大統領の行政命令によって琉球政府公務員の人事に拒否権を持っている」こと、「復帰は国と国との高度な政治問題であること」を伝えてきました。12月には上京し、佐藤栄作総理をはじめさまざまな人たちに会いました。美濃部東京都知事・飛鳥田横浜市長・京都では蜷川府知事に湯川秀樹博士までが革新主席の誕生を祝福してくれました。佐藤総理は「復帰は必ず実現」することと国勢への参加に取り組むことを伝えてきました。2週間にわたり、東京・横浜・関西・九州を回り革新主席の誕生は想像以上に温かく迎えられたのです。

当選して間もない68年11月19日未明に嘉手納基地で爆弾を積んだB52が離陸寸前に、爆発・炎上する事故がおこりました。「命を守る県民共闘会議」ではゼネストを計画していました。ゼネストの是非をめぐり意見が交錯するなか、アメリカ民政府は布令を発令し、スト参加者に解雇を含む懲戒処分にすると警告を発してきました。本土政府からもゼネストは復帰交渉にさしさわりがあると伝えてきました。混乱の中平静に収拾するため「共闘会議にはすまない」と思いながらも屋良主席はゼネスト回避要請をだしたのです。

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12.鈍角の闘争

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「沖縄問題はコンクリートのような厚く巨大な障害物に立ち向かうときに鋭利な刃物では削れないように、全県民的支持を得て立ち向かっていかなければ、刃こぼれするだけである」と屋良主席は語っていて、これを〈鈍角的態勢〉と呼んでいます。B52撤去要求も〈鈍角の闘争〉の一つでした。下地島訓練飛行場問題・毒ガス移送問題・全軍労の全面ストなど県民の復帰への期待は高まっていきました。沖縄県民と全国民の期待の中、返還は「核つき、基地自由使用」をもくろんでいるのではないかと日米両政府に不安を持っていました。1969年11月22日「72年に返還の合意」と共同声明が発表されました。県民は喜びの中にも納得できない思いが広がりました。

県民が不安を抱えたままの本土復帰に、帰国した佐藤首相を羽田飛行場に出迎えることは断念しましたが、「佐藤・屋良会談」で「本土なみ返還」であり「核ぬき返還」であることを確認してきました。「復帰への具体的なイバラの道への一歩の始まり」だと屋良主席は語っています。主席に就任して一年を迎えようとしていました。

沖縄に対しての国庫支出が増えていく中で、軍に働く労働者の解雇があいつぎ、ピーク時には2万8千人いた労働者は復帰時点で1万9千人になっていました。雇用の機会の少ない沖縄では再就職の場は少なく、全沖縄軍労働組合(全軍労)では、大量解雇に対してストライキを決行して対抗しましたが、アメリカ軍との折衝は腹立たしさと空しさだけが残ったのです。70年12月コザ市(現沖縄市)で騒動事件がおこりました。そのころ主婦轢殺事件のアメリカ兵が軍事裁判で無罪になりました。それまでのアメリカ軍政府の重圧下で耐え続けてきた県民の不満がコザ市で起こった交通事故をきっかけに一気に爆発したかのようにアメリカ軍の車だけが燃やされました。

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13.新生沖縄県にむかって

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沖縄返還協定は基地の態様・核ぬき・本土なみ・特殊部隊の存置など不安を残したまま調印されました。屋良主席は「返還協定に不満はあっても復帰は厳粛な事実・・・不満であっても目指す方向に近づけていく努力が大事な態度である」と語り、調印式には参加しませんでした。そのころまだ沖縄はドルを使用していました。全国都道府県知事会にオブザーバーで参加していたとき、突然「ニクソン大統領がドル防衛策を打ち出した」というニュースを聞かされ会場にざわめきがおこりました。ベトナム戦争で国防費が増大し、国際収支が悪化したアメリカの政府はドル防衛策を取ったのです(ドルショック)。ドルの価格が下落すると、沖縄は計り知れない打撃を受けるのです。「屋良主席の東京詣で」と新聞に書かれるほど、本土との折衝を繰り返し、台湾時代の教え子であった山中貞則総務長官が沖縄県民に不利益を与えない努力をすることを約束し、復帰時に1ドル=360円を保証したのです。

1971年11月17日、沖縄国会への「建議書」を持って上京した屋良主席を大勢の報道陣が待っていました。その訳は「衆議院沖縄返還協定特別委員会で自民党が返還協定を強行採決した」ことへの質問をするためでした。20日ごろと聞いていた屋良主席は、県民の要求を突っぱねた国のやり方に言葉も出なかったのです。その特別委では国政に参加していた瀬長亀次郎・安里積千代の両議院の質問も封じこめられてしまいました。

1972年5月15日に新生沖縄県へ移行することが決まり、東京と沖縄で記念式典が行われることになりました。当日の沖縄は朝から冷たい雨が降り続いていました。琉球政府は閉庁され沖縄県庁と刻まれた碑は雨に濡れて冷たくたたずんでいました。那覇市民会館では祝賀の式典が執り行われ、その隣の与儀公園では5・15を屈辱の日として冷たい雨の中で県民抗議集会が行われていました。雨は傘をも通り抜けて参加者たちの身体にまでしみ込んでいきました。

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14.戦後初の知事

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沖縄は琉球政府時代の一国なみの行政から日本の自治体としての一県に移行していきました。すぐに県知事選挙・県議会選挙が実施され、再び屋良朝苗は革新共闘会議から県知事候補に推薦され「励ます会」も結成されました。保守勢力は大田政作氏をたて一騎打ちになりました。復帰が実現したこともあり多くの県民は県政をまかせる人に屋良知事を選びました。県議も過半数が革新で占め、その体制も前進しながら根をはっていくものと思えました。

屋良知事は世替わりの仕事に忙殺される中、植樹祭・若夏国体・自衛隊・海洋博・高速道路・CTS問題など、「沖縄の抱えている問題は困難と矛盾に満ち、限りある力で解決していくには困難であるが、矛盾が生じ、不満・不利益を最小限にくいとめることが如何に大事であるか」と苦悩しながら一つ一つ取り組んでいきました。

復帰してすぐに国土緑化を推進するため植樹祭・特別国体・国際海洋博覧会などの記念行事があいついで取り組まれました。戦後27年が過ぎたとはいえ、県民の多くが地上戦にまきこまれた悲惨な戦争体験の傷はいやされていませんでした。心の奥深くに悲しみを押し込めて日々の暮らしに追われて生きてきたのです。摩文仁霊園で植樹祭が行われましたが、4千人の参加者の中に昭和天皇の姿はありませんでした。

復帰記念行事としての特別国体はテーマに「若夏国体」、スローガンを「強く・明るく・新しく」が選ばれました。各県持ち回りで開催されている国体には自衛隊も参加していましたが、沖縄県では自衛隊抜きの立場にたっていました。しかし、一部に参加があり、機動隊が出動という場面があり、沖縄の苦しみを理解していない国側に対して、怒りは静かに広がっていきました。それでも、エイサー太鼓をオープニングにした若夏国体はみごとなローカル色と本土復帰の喜びが表現されていて、感動的に進められました。開催にともない那覇市の奥武山・沖縄市・名護市の体育会場は立派に整備されたのです。

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15.沖縄振興開発と県民

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沖縄の振興開発計画が立てられ、その一つに沖縄国際海洋博覧会がありました。1975年に海をテーマにし、本部半島に国際的なリゾートゾーンを形成し、沖縄の観光拠点にする目的でした。そのころの沖縄は異常な物価高騰・土地の買い占め・公害・農水産業の危機・資材不足・乱開発・交通問題などさまざまな悩みを抱え、それは県民の暮らしにも大きく影響していました。経済環境の変化は沖縄だけでなく、石油ショックという国際・国内の激変から派生した現象でもありました。会場用地取得では地主たちを説得し、高速自動車道の建設、海洋博など困難を乗り越えて関連施設は完成にこぎつけたのです。屋良知事は「多くの人の力の結集で偉大な力が創造でき、創造した力で難事業の海洋博の準備も整えられた。沖縄はまだ多難な課題を抱えている。・・・」と語り、人々の深い関心と理解・各分野、専門家の力を結集できたことに感謝の言葉を残しました。

海洋博は社会基盤の整備・観光産業の施設整備・道路や街の美化・流通機構の改善などと海への関心・伝統文化の発掘など沖縄の歴史・文化を内外の人々に紹介したことで大きな成果をもたらしました。

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16.波乱と苦難の8年

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屋良知事は琉球政府行政主席に就任した直後、B52が墜落するなど、復帰にむけて数々の難問にぶつかりながら、熟考に熟考を重ねるように決断して行政の長として歩んでいきました。本土復帰して沖縄県になり、記念行事が立て続けにとりくまれるなかでも、さまざまな問題にぶつかり、混乱と悩みはとぎれることはありませんでした。

当時日本の石油備蓄計画にともないCTS(原油貯蔵施設)誘致の問題がありました。施設建設のため平安座島ー宮城島間の公有水面の埋め立て許可申請も提出されていました。しかし、反CTS運動の高まりで宮城島では、用地取得が困難となっていました。そのころタンカー公害による海の汚染が目立ち、琉球列島沿いに航行するタンカーの垂れ流す廃油が、宮古・八重山の海岸まで汚染し白い砂浜を汚していました。行政がCTSを認可したころには宮城島の一部に反対はあったものの地元村議会が承認していたのです。

1973年ごろには、屋良知事の支持母体である革新諸団体の間にCTSに反対の運動が高まり住民運動も盛り上がっていきました。本土企業の土地買い占め・開発ブームによる自然破壊などが伝えられ、社会的にも環境保全への関心が高まっていきました。屋良知事は「一度認可したものを撤回できるのか」「どの道を選ぶにしても問題を収捨する自信はない」として、苦悩しました。そして県議会の平良幸市議長に気持ちを伝えました。翌年、1月19日熟慮の結果「CTS立地反対」の声明を出しました。それに怒った一部の政党の人々は与儀公園で屋良知事の退陣を要求する大会を開き、そのデモ隊が知事室になだれ込み混乱、那覇署員がかけつける騒動もありました。CTSの混乱のなか、小禄の幼稚園構内の排水工事現場で地中に埋もれた戦時中の不発弾が爆発し、死亡4人、重軽傷32人、家屋80棟、と車両41台が全半壊する大惨事がおきました。

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17.埋め立て竣工認可

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屋良知事のCTSの認可をめぐって企業側の賠償問題や県民の反対運動などで紛糾していきました。裁判問題まで発展し、苦渋の選択をせまられました。

金武湾を守る会の集団団交を拒否し、警察力を導入したことで退陣を要求する声は高まっていきました。革新与党3党の代表と話し合いをもち「四面楚歌・孤立無援の心境である。裁判で判断してもらい、選挙で県民の信を問いCTSに審判をくだしてもらいたい」と屋良知事は主張しましたが、「かえって混乱するから辞表は受理できない」と、会談は物分かれになりました。12月に岡山県の倉敷市で水島コンビナートの製油所で、重油が流れだし水島港から瀬戸内海まで流出する事故が発生し、安全性への疑問や石油企業への不信感が社会的に広がっていきました。

1975年、那覇地裁でのCTS裁判の判決で県の主張は認められました。屋良知事は「判決を厳粛に受け止め、県内各界、各層の声に耳を傾け、知事がとるべき処置を早急に検討、結論を出したい」と延べ、認可せざるをえないと結論を出したのです。

知事在任中、苦しみ続けたCTS問題、与党各党とのコンセンサスは得られませんでしたが屋良知事は県と村当局に「良心的、かつ細心綿密な公害防止協定の締結、優秀な公害監視の機動設置の完備、県民に不利益・不安を与えないよう最善の行政的努力」を望み、企業に対しても地元村民の理解納得を得ること強く要請したのです。

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18.県民よ希望を持とう

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1976年6月、平良幸市知事が誕生し、県議会も革新が過半数を制しました。「革新の火は、良識ある県民の手で受け継がれた」、屋良朝苗は琉球主席・県知事の8年間を回想して語っています。「・・・強靱な生活力に恵まれている民族は、簡単には滅びない。沖縄県民は、あの戦争の悲劇惨禍の中から力強く立ち上がり、アメリカの手段的方便的支配にも屈することなく民族的節操をまもりぬき、至難な復帰をかちとった。私たちの祖先が昔から逆境にも負けず旺盛な活動力で海洋にいどみ、すぐれた文化創造能力で有形無形の文化遺産を残したのは歴史の示す通りである。・・・基地のほか難問を限りなく抱え込んでいる沖縄だ。困難は多くとも、悲観してはならぬ。楽観もすまい。『県民よ希望を持とう』と私は心から呼びかけたい。・・・」とメッセージを県民に送り、屋良は激動8年のかじ取りを終えました。

1947年、知念高校の校長に赴任。1950年、沖縄郡島政府文教部長。沖縄教職員会長・沖縄戦災校舎復興促進期成会長・沖縄子どもを守る会会長など教育復興に活躍し、1968年に初の主席公選に当選しました。「即時無条件全面返還」「核抜き本土なみ返還」を掲げ、沖縄の本土復帰に精力的に活動し多くの困難を乗り越え、1972年5月15日に施政権返還を成し遂げました。復帰後は戦後初の県知事に就任し、植樹祭、若夏国体・海邦博覧会などを開催、基地問題や県経済の復興に取り組み県政の基盤づくりや発展に努め8年間県政の長として活躍しました。読谷村では1989年8月、読谷村名誉村民顕彰で功績を称えました。1997年2月、「復帰の父」と呼ばれた屋良朝苗は享年94歳でその生涯を閉じました。

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更新日:2025年12月22日