屋良朝苗(1)
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1.幼かったころの日々 −読谷山瀬名波に生まれて−
解説文
東シナ海を吹き抜ける北風と荒波のおしよせる海岸近くに瀬名波の集落があります。その北寄りに100年以上前首里あたりから移住してきた人たちが川平屋取(カビラヤードゥイ)と呼ばれる集落を形成していました。屋良朝苗の生まれた家も、廃藩置県(1879年)後、首里から川平に移って新しい生活を始めました。原野を開拓し生計をたてていくことはとても大変なことでした。集落には湧き水がなく海の近くの〈瀬名波ガー〉という泉まで水を汲みに行きましたが主に女性たちの仕事でした。水汲みは一日も欠かすことができませんから母や義姉の姿を見て朝苗も手伝いました。また、家から畑までの道のりも遠く時間がかかりました。そんな厳しい状況のなかで家族のみんなが力を合わせ、骨身を惜しまず働くことに一生懸命でした。
屋良朝苗は1902年12月13日に屋良家の四男として生まれ、17歳までそこで育ちました。幼いころは体が弱く引っ込み思案の朝苗を両親は特別に可愛がっていましたが、学校に通いはじめて次第に元気な子供に成長していきました。とくに村の相撲大会では何人も勝ち抜くほどの人気者で小学校の高学年になると腕力もつき、少しずつ向学心もでてきました。当時の小学校は、本は教科書だけしかなく、本を読む機会も少なく、音楽の時間にオルガンもありませんでした。勉強はほとんど学校だけで、農作業などの手伝いをして家を助けていましたが、朝苗は最高学年になると嘉手納にある県立第二中学校への憧れが強くなり、進学したいと思っていました。
写真解説
2.畑の中ですごした少年時代
解説文
当時の屋良家は兄が軍隊に入っていたこともあり、家を手伝う働き手が足りませんでした。小学校を卒業した朝苗は高等科への進学もかなわず畑の手伝いをすることになりました。畑は通学路に面していたので学校に通う小学生の姿がみられました。学校に通いたいという気持ちは膨らみ押さえきれずに、畑仕事の手を休めてさめざめと泣きだした朝苗を見た義姉は家に帰って父親に話しました。家でも高等科に進学させねばと話し合っていたときに、先生がきて学期の途中から入学することができました。高等科へ進学した朝苗は学校に行く前の朝早く家の手伝いをして、帰ってからも畑で働き農家の手伝いをしていました。これ以上進学はできないと思っていたので学校の帰りに時には相撲をしたりしていましたが高等科一年のとき、沖縄で飛行機が飛ぶというのでみんなで見学に行きました。朝苗少年の心は科学への興味に心がふくらみました。
高等科の卒業のとき、進学できないさびしさに校舎をみつめ別れを惜しみました。屋良の家は年老いた両親を助け兄たちが手伝っていましたが、厳しい地形と不便な立地にある畑は苦労も多く、みんなで力を合わせなければ生きていけませんでした。それでも、厳しい仕事の合間に先生たちが教えていた夜学校に通い、兄たちから農業をみっちり教えられ、鍛えられました。
農業を手伝って2ケ年半くらいしたとき転機がきました。苦学して教師の道を歩いた当山真志先生(先生は、かって母校の使丁をしながら検定試験に合格。訓導となって母校に赴任していました)が「朝苗を渡慶次小学校の使丁(小使いさん)に」と家に訪ねてきたのです。「勉強の好きな朝苗をこのまま農業でうずめさせてはもったいない」と言ってくれました。
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3.あこがれの師範へ
解説文
好きな勉強ができることはたいへん嬉しいことでしたが、農業の手伝いで本を読む機会もなかった朝苗にとって使丁になることは勇気のいることでした。しかし、この機会をのがしたら学問の道は得られないと思い、家の人たちのゆるしを得て渡慶次小学校で働くことにしました。そこでは小学校時代の同期の人が先生になって働いていました。同期の人たちの小使いさんとして働く朝苗の姿を校庭のすみから見ていた母親は、進学させられなかったことがつらく涙を流していました。校長先生の家族や先生たちも朝苗が師範学校に受験することを勧め励ましてくれたり、兵隊に行っていた兄が軍隊生活の中で学問の大切さを身をもって知ったことで進学をすすめてくれました。小学校5年ごろの教科書からやりなおし、8カ月の間必死に勉強にとりくみ、師範学校を受験することになりました。
当時の知花英康村長は「村の振興は人材の育成から」として一カ月5円の育英資金をだすことを決め、師範への受験をすすめました。そのころから師範に受験する人数も増え読谷村の教育界で活躍した人たちも輩出しました。朝苗は合格しましたが、父親が大病で床に臥せっていて畑仕事の人手が足りずにいるのをみて、進学を諦めるのかと悲しく涙をこぼしました。そのようすに病床の父親も兄たちも、当山・曽根両先生や村長・先輩たちも励まし応援しました。あこがれの師範に入り、先生になれるのかと思うと朝苗はその喜びが体中からあふれ、おさえることができないほどでした。読谷の第一回目の村費学生となったのです。
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4.寄宿舎生活から高等師範へ
解説文
師範学校は、ほとんどの人が寄宿舎に入りました。当時の寄宿舎は軍隊式で上、下級がはっきりしていて、下級生は上級生の布団の上げ下ろしから掃除などで忙しく、門限もきびしかったのです。まもなく、西洋の自由主義思想が社会的風潮になってくるとメ平等モという意識が高まり、下級生が上級生の言うことを聞かなくなりタテの秩序は壊れ始め門限もルーズになりました。第一次世界大戦直後の好景気で物価は高くなり、黒砂糖は6倍くらい値上がりし、成金とよばれる人がでてきました。
朝苗は本科に進み、好きな数学の勉強に励みました。英語や国文・漢文は不得意でしたが数学は先生も熱心でよく指導をしてくれました。田舎から来た者でも勉強すれば人に負けない自信がついてきました。当時の師範には美術研修で沖縄に来られていた鎌倉芳太郎先生にも教えを受けました。師範の4年になると修学旅行も行かずに高等師範の受験勉強をし、数学・物理・化学を専攻する理科二部を受けました。思い通りにいかず自信はありませんでしたが、試験結果は広島高等師範理科二部に合格したのです。
合格したものの家の人の承諾もなく、学費のあてもないので朝苗は役所に貸費を頼んでまわったのです。読谷村で高師に合格したのは初めてのことだったので、村の有志が学資金を集めてくれました。ところが、徴兵検査にパスしていたので現役兵として入営しなければならなくなりました。高師には手続きをすませて宮崎県の都城で1年兵役に付くことになりました。大正末期は軍備縮小の時代で正規の訓練もほとんど受けないまま5カ月で帰休満期となり退営し沖縄に帰ったのです。広島高師に入学までの4カ月、母校の渡慶次小学校で教壇に立ったことは朝苗にはよい経験になりました。1926(大正15)年読谷村は貸費制度をつくり、月々25円を4カ年朝苗に貸費することを決め援助しました。朝苗は自由な雰囲気の中で学問を身につけ、運動(柔道)で精神力を養い、豊かな学生生活を過ごしました。
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5.物理の教師として
解説文
高師2年のとき、友人の妹(ヨシ)と結婚しました。結婚相手は自分で探したいと思っていたので、2〜3年前から友人をとおして彼女に意志を伝え、自由に交際し、まわりの人たちも祝福してくれました。沖縄の師範学校ではやれなかった実験などで苦労もありましたが、広島時代の4年間は無事に過ごしました。1930(昭和5)年の卒業後は関東方面への就職予定でしたが、結局、沖縄の一高女・女子師範学校で物理学を担当し中等教育界に席をおきました。素直で優秀な生徒たちでしたが、物理にはあまり興味を示さず、朝苗にはもの足りなく思えました。物理教育の知識だけが先行していたのかもしれません。そのころ写真の研究をしたり、慣れない卓球の指導をまかされ生徒と一緒に練習したりしながら映画教育をはじめ16ミリの投影機・映写機を買って生徒の学校生活を撮影し、映写したりしていました。朝苗は希望していた大学の進学をあきらめ、自信のもてる物理教師になろうと心に決めました。
5年後、県立二中に移り、男子生徒に物理を教えることになりました。生徒たちは活発で優秀でしたが物理の実験の設備が不備で、生徒たちに実験用器具を創らせました。創立25周年記念行事の時、科学の展示会を担当し出品器具に創意工夫のあるものを展示しようと、毎晩おそくまで学校に残って製作したりしましたが、この経験は科学教育者として「よい機会にめぐまれた」と朝苗は語っています。
そのころ、台湾の台南州立第二中学校からのさそいがありそこに赴任することになりました。台南の校長は人物・身元・成績など細かく調べて朝苗を採用し、新任にもかかわらず重要な主任のポストにつけました。植民地政策がおこなわれていた時代、台湾出身の教師や青年たちにはハンディキャップがあり、将来の希望も持てずにいたのです。
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6.身体をぶつけて生徒を教育
解説文
1938年、台南に赴任した朝苗はクラブ活動にあたる「理科部」を設け、放課後、徹底的に製作指導をしました。希望者も多く理科に興味をもつ生徒が増え科学知識も正確になっていきました。毎年開催された理科展は台南二中の名物になり、知事から表彰されました。台南州全体の学校関係の創作品展覧会で台南二中の出品25点全部が入選し、日本の支配下で悩んでいた台湾の青年たちも元気になってきたのです。師弟の気持ちは民族をこえるものがあること朝苗は学んだのです。
1943年、当時の台湾では学校の整理統合があり、新制の台北師範学校にいくことになりました。戦争状況も苛烈になり日本は食糧不足で、寄宿舎の生徒の食事も貧弱で、満足な活動もできなくなっていました。そんな中でも学校をあげて増産作業・軍への協力動員防空壕堀など重労働が続き、学生は応召され幹部候補生として入営していきました。ついに、学校を閉鎖し生徒も先生も応召され校長以外は軍隊生活にはいりました。沖縄出身の学生たちは朝苗の家で防空壕堀を手伝い、腹一杯ご飯を食べられることを楽しみにしていたと話しています。学校が閉鎖になり、朝苗たちは転々と移動しロンビアーという山の中に移動した時「沖縄は全員玉砕」の報告を聞き悲しさとさびしさに打ちのめされたと語っています。
終戦後の台湾では学校の秩序も乱れ、台湾の生徒を差別的に取り扱った先生や生徒たちが制裁を受け、見るのも忍びないほどにうちのめされた姿に負け戦のみじめさをしみじみと感じましたが、不思議に沖縄出身者は殴られませんでした。諸設備を整理したり、清掃をしたりして学校の整理整頓といった作業を連日続けるなか、学校も中国に接収されました。文系の先生は学校から追われ、みそや野菜などを売りながら生活をつないでいましたが、物理は中国から専門の教師が来ていないので、引き続き学校で教えていました。形ばかりでやりがいのない日々で、希望のないまま一年たった1946年の暮れ、変わり果てた沖縄に引き揚げたのです。
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7.ふるさとは見る影もなく
解説文
全滅と聞いていたふるさとに帰ることは勇気のいることでした。朝苗は親・兄弟・知人たちがどうしているのか、沖縄の実情を見てからこれからの生き方を決めようと妻子を連れて帰ってきました。長男だけは本土の大学に進学するように送り出し、母や兄がいた石川にむかいました。その途中の目に見えるところには住宅が一軒もなく、広いと思っていた沖縄が一望の下に見渡せ、すべては破壊しつくされ同年輩の人たちはほとんど亡くなられ、戦争の悲惨さをつくづく感じたのです。ただ、玉砕と聞いていたわりには生存者も多く、人の生命の力強さに感動しながらも、生き残った人々の心は荒れすさんでいて、戦果思想が人々の心をおおい、親を亡くした子供たちはなお哀れな暮らしをしていました。
学校は校舎はもちろん机・腰掛もなくテントか露天で地面に字を書いたり、海辺で歌を唄ったりしていました。ともかく学校は開始されて、物的条件が無いなかでも教育はすすめられました。早く教師にもどって先生方に呼び掛け、教育の再建にあたろうと朝苗は安里源秀平(後の琉球大学学長)校長のいた田井等高校(現名護高校)の教師になりました。しかし、赴任一月で知念高校の校長に転任することになりました。当時玉城村親慶原の高台に校舎が建てられました。そこは近くに軍民政府があり、沖縄の政治の中心地として賑わっていました。生徒たちは教科書もノートもなく、服装は軍服の改良服なので朝苗は、たいへん胸を痛めました。生徒たちの自主性を育て、困難を乗り切れる人間を育てることが教育上最も大切なことと考え、実践しました。そのころの沖縄の教育界では高校を卒業しても進学の道は文教学校か外語学校以外に生徒たちの進む道は開けていませんでした。「必ず進学の道は開けるから」と生徒たちを励ましたのです。
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8.文教部長として教育の復興に力を注ぐ
解説文
知念高校では定期的に創作品展覧会をしていましたが、生徒の作品は優秀で、どんな能力がひそんでいるのかと不思議なくらいでした。グロリア台風で校舎が吹き飛ばされときは、民政府からもらいうけた資材で机・腰掛を製作し、生徒たちは生き生きとした表情で喜びました。学校現場としては最後となった知念高校は教育者としての朝苗に語り尽くせない多くの思い出を残しました。知念高校に在任中、軍の方針で教育指導者講習会に派遣され、九州大学で3カ月本土の教育の実情を見て新しい教育にふれて驚かされました。沖縄では図書を売る店もなく、参考書さえ見たこともなかったのに福岡の街では満ちあふれていました。校舎や服装にも大きなへだたりがあり、沖縄の子供たちがかわいそうでした。
平良辰雄知事の推薦で文教部長に就任した屋良朝苗は校舎の問題・教育の普及・教員の待遇などさまざまな問題を抱え忙しい日々を過ごしていました。しかし、那覇で暮らすには給料が安く家族を養うことができないため、妻のヨシに再び教壇に立ってもらうことになりました。そのころは台風も多く、仮校舎など全壊しても、立派な建物を建てる見通しもありませんでした。南部の高嶺小学校を視察したとき、みすぼらしい仮小屋の中で、机もなくボール箱で石に腰掛けて勉強しているのを見て、いつまで戦争の犠牲を罪のない子どもたちに受けさせているのかと胸を締め付けられたのです。
解決の道はただひとつ、日本政府や国民に訴えることだと思い、指導主事の喜屋武真栄に話しました。そんなおり、文部省から代表が来島したので、沖縄の教育の現状を訴え、請願書を提出したことで文部省が沖縄に目をむける強い契機になりました。1951年、臨時中央政府が設立、翌年、布令六十六号の草案が提出されました。それに反対を唱え屋良朝苗は群島政府が解散したことで、文教部を去ることになりました。
写真解説
9.教職員会会長として −沖縄の教育復興−
解説文
1952年5月、教職員会員の推薦で会長に就任しました。喜屋武真栄も事務次長として運営に携わり、すぐに地域懇談会を実施し、校舎復興の運動に取り組み始めました。そのころ比嘉秀平主席から文教局長就任の要請がありましたが、教職員会の理事会の決定でそれを断り会長を続けることになりました。その年の11月、東京の高嶺明達から、「沖縄の戦災校舎復興のため全国の児童生徒に一円カンパを呼び掛ける運動を展開する」との報せが入り、沖縄でも促進期成会を結成し、教職員会・市町村長会・PTA連合会・婦人連合会・青年連合会が参加しました。会長に就いた屋良朝苗は連合会の会長たちと喜屋武とともに全国を回ることになりました。
沖縄の問題を全国民の問題として、沖縄に関心と責任をもってもらい、日本復帰につなげていく世論を高めていくことなど、物心両面の取り組みでした。東京にも事務所をおき、写真・アルバム・新聞(沖縄の教育事情掲載)・メッセージなどを準備しました。四国の日教組大会に参加して各県をまわり、その他の府県は一期・二期・三期にわけて鹿児島から北海道まで「悲願の旅」を続け、背広の袖も擦り切れるほどでした。全国知事会・全国議長会・全国市町村会などや教育、婦人、青年会関係の人たちもふくめて募金を集めてくれました。とくに文部省は全国に配られる中等教育資料に沖縄の校舎問題を写真入りで取り上げ、訴えを載せて協力し、6千万円もの多額の募金が集まりました。しかし、アメリカ軍から圧力がかかり、建物には使えず、「愛の教具」として各学校に教育備品が配られました。この運動のあと米国民政府の圧力が強まり、屋良は教職員会と復帰期成会の会長を辞任しました。しかし、教職員会定期総会で会員一致で会長に再選しました。その後沖縄の民主教育の推進及び祖国復帰運動に全力を投入しました。57年には琉球教育法令六十五号が公布され、その内容に納得いかないまま、教職員会として布令撤廃、民立法の促進の運動が展開されていきました。


























