軍政下の苦悩 比嘉秀平
1.悲運な少年時代
解説文
湿った梅雨空がまだつづく1901(明治34)年の6月7日明けがた、読谷山村楚辺の比嘉秀實・ウシに三人目の男子が誕生、名を<秀平>と命名しました。楚辺はスビクラガー(楚辺暗川)を水源地としてサツマイモやサトウキビなどの畑作中心の地域で、広大な平地があり、豊かな農家が多かったところです。秀平の家は中農家で、両親を柱に家族が力を合わせてキビ作に励んでいました。秀平には六人の兄妹がいましたが、農業だけでは生計をまかなうことができず兄二人はハワイに移民することになりました。当時移民を希望する人たちの中には徴兵されることを嫌い、外国に働きにいった人たちもいたようです。
そのころの農家の子供たちがそうであったように、秀平もキビ刈や牛や馬の世話など、幼いときから親を助けていました。ある日サーター車(きびの圧搾機)に入れた数本のキビが機械にひっかかってしまい、それを引っぱり出そうとしましたがサーター車を引く馬の力は思いのほか強く、あっと言う間もなく秀平の柔らかな右腕は鉄輪に引き込まれ挟まれてしまいました。そばにいた父親が馬にムチをして機械を止めたときには秀平の右腕は血に染まっていました。右腕は骨まで砕かれていて地獄のような苦しみは9歳の少年にはあまりにも酷い出来事でした。当時、外科の病院は村内にはなく嘉手納まで馬車を走らせ伊波医院で右腕を切断する手術を受けました。一時は生命まで危ぶまれた秀平少年は、医師の冷静な措置と治療で傷は回復し元気をとりもどし、片腕になっても学校に通いながら、両親を手伝うようになっていました。そんな秀平少年の姿を村の人たちは温かな眼差しで見守りました。秀平少年は将来の自分自身をみつめ、学問の道にすすむことを決意し一生懸命勉強をしました。
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2.学業に励み教師に
解説文
古堅小学校を卒業し、沖縄県立第二中学校(当時の校長・志喜屋孝信)に入学した秀平は学業だけでなく、身体の訓練にと柔道部に入りました。左腕だけで鍛練を積み重ねていくことは人に話せないたくさんの苦労があったことでしょう。秀平が二中に通っていたころの学校は北谷村嘉手納にありましたが、卒業の年(1919年)に那覇に移転しました。学業も熱心で成績は上位で、教師の奨めもあり東京の早稲田大学を目指しました。二回目のトライで同大学の英文学部に合格、上京しました。下宿では机の前の畳がへこむ程勉強に励み、 オバさんから「たまには外に出てきたら」と声をかけられるほどで、秀平の学問に対する真剣な態度は教授たちも注目していたようです。 父親はハワイへ出稼ぎに行き、家族の生活費・秀平の学費を仕送りしていました。ハワイから届く手紙などで英語に興味をもち、英語教師の道を選んだのでしょう。早稲田を卒業すると和歌山県の高野山中学校に赴任し、3ケ年間教鞭をとりました。この高野山は山に囲まれた霊地で、空海が真言宗の総本山金剛峰寺を創建したところです。秀平は教鞭をとるかたわら座禅をくみ<無>の心境を切り開いていったといわれています。
3年の任期が終わると郷土沖縄では、秀平の帰りを待っていました。母校の県立二中の教諭に迎えられ恩師の志喜屋校長とともに後輩の指導にあたりました。教え子たちのなかには、後に社会で活躍する指導者となった人もいます。二中で11年間教壇に立っていましたが、県立三中の教頭として名護に赴任することになりました。
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3.三中時代
解説文
比嘉秀平は、1924(大正14)年、産婆の資格をもつ金城秀子と結婚し、二男一女が生まれました。家族は那覇から名護に住居を移し、秀平は三中の教頭として、秀子は産婆として名護の人たちから親しまれました。秀平は生徒たちにたいして、ときには厳しく指導していましたがつねにやさしさを忘れずに接し、担当の英語の授業では歯切れの良い発音とリズミカルなイントネーションで教えるので生徒たちの理解は早くのちに英語教師として活躍した人たちもいました。その流暢で正確な英語力は戦後、秀平の運命を大きくかえることにもなったようです。また、出欠をとるとき万年筆のキャップを左手だけで器用にあけて書類に書き込む姿は生徒たちを驚かせ<ティーグヮー(ティーは手、グヮーは愛称)>のニックネームがつけられました。校内清掃では左手だけで杭を引き抜いたり、ときには名護湾で泳ぐ姿も見られ、自らを鍛えあげた厳しい秀平の生き方を人々は目にしていたのです。
1944(昭和19)年になると、沖縄には守備軍が続々と上陸し、飛行場建設・横穴陣地の構築などで住民たちも作業にかりだされたり、軍隊のための食料供出に忙しくしていました。教師たちも作業の現場に出向き、生徒の監督をしていました。日本政府は戦時の緊急措置を発し、徴兵年齢を引き下げ多くの青年・学生を戦場に動員しました。また、英語は敵牲国家の言葉として授業時間を減らしたり、入学試験の科目から外しましたが、秀平たち英語教師は片身の狭い思いをしながらも、学問の一つであるとして少ない時間であっても実践的英語を教えつづけました。
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4.戦争への協力
解説文
1944年10月10日にアメリカ軍機による空襲があり那覇は焼き尽くされ、読谷村では北飛行場が爆撃され犠牲者をだしました。アメリカ軍機は島々全てを空中写真で撮影し、地上戦の準備をしました。年が明けると、アメリカ軍が沖縄へ進攻することが確実な情勢となり、住民たちにとっては不安と緊張が交錯し、山原への疎開命令がだされても、襲いかかる砲弾の嵐がどれほどのものであるのか想像も出来ずにいました。それでも学校では3学期の諸業務におわれ、比嘉教頭は生徒を日本軍に協力させることや校務に忙しくしていました。そうした状況のなかで県立水産高校の校長にと栄転の話が伝わってきました。比嘉には学歴・経歴・指導力・人格ともにその条件は備わっていましたが、校長への道を断りました。戦前の軍国主義時代の日本の教育・天皇中心の国家主義のなかでは片腕であることは昇進への道を困難にしていたこと、多くの教師が兵士として軍隊に動員され教師不足となっていた時代であったことを比嘉自身認識していたようです。
硫黄島(東京都)を占領したアメリカ軍は3月下旬1400隻の戦艦で沖縄本島を包囲し、上陸に備え砲弾を打ち込んできました。三中では急いで卒業式をすませ、上級生を主体に鉄血勤皇隊を編成、二隊に分かれ日本軍とともに守備につきました。本部半島の南部にある真部山の隊に比嘉は学徒隊147名とともに配置されました。教え子たちをかばいながら指揮をとっていたことは生徒たちにも伝わっていました。
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5.捕虜となって
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一月余の訓練で最前線に立たされた少年たちは人間爆弾として爆弾を抱えて敵に突入するという苛酷な運命にたたされました。三中の鉄血勤皇隊は真部山につくと陣地もなく、兵舎もなく、食料さえない山の中で夜を日に撤しての作業がつづきました。伊平屋島沖でアメリカ軍の戦艦に体当たりして命絶える神風特攻隊の姿に自分たちを重ねながら三中の生徒たちは山の中をアメリカ軍に追われるように逃げ回ったのです。6月ごろアメリカ軍は我部祖河・古我地に避難民を収容するキャンプを設営していたので、山中に隠れていた住民たちも下山してきていましたが、その中に比嘉秀平たちもいたのです。英語の堪能な比嘉は、アメリカ軍と住民の間にたちさまざまな問題を解決していました。そのころアメリカ軍は、沖縄住民の行政機関を設置するため、その長にふさわしい人物を探していました。比嘉は恩師の志喜屋孝信を推薦し、その所在を尋ね歩き仲尾で痩せ細った恩師と再会をはたしました。キャンプに着いて教え子たちのつくるフナやカエルのスープで体力を回復した志喜屋は軍政府の求めで、戦後初めての行政機関・沖縄諮詢会の議長に就きました。そのことは戦後の比嘉秀平の運命を大きく変え、教壇を離れ、政治の道をあゆむ一歩となったのです。
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6.諮詢会での活躍
解説文
8月下旬に開かれた諮詢会総会で委員長に選ばれた志喜屋は、比嘉をそばに置き、米軍政府が布令や指令など次々に発する文書類を翻訳する仕事をさせました。田井等地域で教育機関を設立する計画をすすめていた比嘉は住まいを石川に移し諮詢会に参加し、志喜屋を助けて米軍政府折衝の通訳などもつとめ日夜忙しく働いていました。 荒廃した沖縄の戦後行政は諮詢会からはじまり、翌年の4月には「沖縄民政府(OCA)」が設立されました。各分野から選ばれた代表によって選出された志喜屋孝信が沖縄民政府知事に任命され、諮詢会の主だった人たちが民政府の役職に就き、諮詢会は解消しました。
住民が待ち望んでいた沖縄民政府の誕生は、焼き尽くされ、破壊し尽くされた沖縄の再建に米軍政府が協力を惜しまないものと信じ、多くの人たちが喜んだのです。志喜屋知事は就任のあいさつのなかで「禍を転じて福となす覚悟で米軍政府のご好意に感謝しつつ米国文明の利器を体得して戦前の沖縄よりも、よりよき沖縄を建設し、沖縄の黄金時代をわれわれの手によって出現せしむるよう努力して」くれるように住民に呼び掛けました。米軍は沖縄に対して、まだ本当の姿を見せていませんでした。
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7.志喜屋知事の片腕として
解説文
恩師の志喜屋知事を補佐し翻訳を専任としていた比嘉は官房翻訳課長に抜てきされ、日本本土からの帰還者の受け入れをはじめ、通貨の切り替え、賃金制の実施、電話回線の設置、予算の編成など多くの困難な問題を処理するためその責務も重要さを増していきました。沖縄民政府は官房翻訳の課を部に昇格させ、部長に比嘉秀平を起用し責務はより重くなっていきました。
沖縄における米軍政府は、それまでの海軍から陸軍に移管され、所在地も具志川村栄野比から玉城村親慶原に移しました。沖縄民政府も知念地区に移動し知事以下民政府のスタッフも、建てられた職員用の住宅に移動しました。(いわゆる「知念民政府」)
それまで、米軍要員が作業していた那覇軍港の荷役作業を沖縄住民にやらせることになり、責任者として国場幸太郎が選ばれ、作業員たちの住まいとしてツーバイフォー住宅が建設されみなと村ができました。港湾の仕事はきつく、慣れていない人が多かったこともあり作業は進まず、能率が上がらないのを不満とした米軍政府は全島の食糧売店を閉鎖する指令を発しましたが、労務の提供に協力することで事態を打開し閉鎖はされずにすみました。そのころ中国大陸では国民党と共産党とで激しい戦争が続いていて、米国は国民党を支援し沖縄を中継して軍事物資を輸送していました。
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8.社会情勢の変化の中で
解説文
米軍政府の指令で設置された沖縄議会は、戦後の混乱した社会秩序の回復、衣食住など生活の安定、医療施設の整備、住民の旧居住区への移動など重要な役割を果たしていました。1948年8月の議会で問題がおこり、それまでの知事の諮問機関としての議会ではなく、議会本来の機能と住民に責任の持てる沖縄民政府の樹立を要求する態度を表明したのです。米軍政府は全面的に拒否し議会と対立が続くなか、志喜屋知事は体調をくずし比嘉たちを心配させました。沖縄の政治的・社会的混乱を長引かせないために比嘉は一生懸命で、こうした困難にぶつかったことで比嘉自身が政治的体験を積んでいったのかもしれません。翌年、米軍政府は指令によって沖縄議会を解散させ、新しい議会を設け、新議員を選出しました。
1949年9月には中国大陸に毛沢東の指導する中華人民共和国が成立し、米国の支持する国民党の立場は微妙になりました。極東における戦略的地位を確保するために沖縄住民の不満を取りのぞき、その心をつかむ必要に迫られた米軍政府は、琉球復興金融基金を創設したりするなど新しい措置を打ち出してきました。沖縄議会も新しい機構に再編され、それまで渉外部長を努めていた比嘉秀平は官房長に抜擢されました。それまでも渉外担当者として軍民政府間の業務を処理してきましたが、官房長に就任してからは軍民の重要会議には正副知事とともに出席し重要政策の立案にも参画、沖縄民政府のスポークスマンなど、その活動の幅を着実に広げていきました。
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9.初代の任命知事
解説文
沖縄民政府は、沖縄群島における住民側の中央執行機関として設置されましたが、新体制発足後まもなく解消されました。米軍政府は1950年1月に布令を発し「米軍政府に助言する」ことを目的とした「琉球諮詢委員会」を設置し、比嘉はその委員長に任命され「委員会を代表して全面的に米軍に協力し、軍民共同の目的達成に最善を尽くしたい」とあいさつしました。沖縄の長期にわたる軍事占領を続けるため米軍政府は、住民の要求する選挙を実施し、琉球諸島を4つに分割した沖縄本島・宮古・八重山・奄美の四群島として各群島政府における各知事・民政議員を選出することにしました。民主主義体制を願い、要求してきた住民は戦後始めて自身の手で知事・議員を選出したのです。
そのころ、日本国と米国間では講和条約の話し合いがつづけられ、外部から(共産主義)の脅威をたてまえに米国の戦略的利益を確保するため、52年4月28日北緯29度以南は日本から行政分離されることになりました。(53年に奄美・72年に沖縄が返還)極東軍司令部は従来の米軍政府に代わって米国民政府を新しく設置することを指令し、沖縄に臨時の中央政府を設立、主席に比嘉秀平を任命しました。群島政府は52年4月、琉球政府の発足にともない業務は移管され、住民意思を反映することのできる政府組織は短い間で終わりをつげました。
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10.屈辱の4・28
解説文
1951年沖縄の帰属をめぐって住民投票がおこなわれ、72%が日本復帰を願っている結果となりました。しかし、講和条約の締結は住民の願望とはかけ離れ、沖縄は日本から切り離されることになりました。米国民政府は〈中央政府〉をつくり「琉球政府立法院議員」を選挙することを布令で発表し、琉球政府の主席に比嘉秀平を任命しました。比嘉主席は「経済の自立」が自治の確立に通ずるとして琉球経済の振興に努力しました。
日本復帰を願った県民の思いは叶えられず1952年4月28日、講和条約第3条によって日本から切り離され、屈辱の日となりました。比嘉主席は「国際情勢が極めてデリケートな今日、われわれは、しばらく辛抱しなければならない状況に置かれている」と語り、この日本復帰の時期尚早論が社大党との溝を深め、考え方の違いが顕著になったのです。比嘉主席は社大党を離れ「琉球民主党」を結成、与党の党首として米国の施策に協力し「共産主義勢力の台頭を抑圧し、もって琉球の繁栄を達成する」道を歩みはじめたのです。比嘉秀平は52歳になっていましたが、戦後沖縄の苦悩と苦難の道はこれからも続き、心身ともに苛酷な時代となっていくのです。
発足した琉球政府は基地建設の労働者のストライキや日琉間の渡航・貿易・各種援護事務・遺骨収集などさまざまな問題に加えて、軍用地の接収問題がおこりました。米国は布令109号で「土地収容令」を公布し、地主の意思とはかかわりなく強制的に収容するという措置を出してきたのです。
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11.土地とりあげと島ぐるみ闘争
解説文
講和条約発効から1年が経つと比嘉主席は「全面的祖国復帰の早急な実現に総力を結集して」いこうと、談話を発表しました。そのころ米国民政府は住民投票で選ばれた議員にたいして当選無効を指示してきました。沖縄の植民地化に反対する住民たちは「土地収容令」に対しても強く反発し島ぐるみのたたかいに広がっていったのです。基地経済以外で農業は住民にとって大切な生活の糧でしたから、農地の接収は命にかかわる大問題でした。当時、米国のリチャード・ニクソン副大統領が来沖し「共産主義の脅威が続く限り沖縄に軍事基地を保持し・・・米国だけでなく、世界、とくにアジアの自由諸国の防衛基地として重要」との談話を発表、軍事的に長期に保持するという強い姿勢が示され、住民の<日本復帰>への思いは無視されました。また、アイゼンハワー大統領は「沖縄の軍事基地は無期限に使用する」と表明、軍用地問題は大きなうねりとなって住民の心をゆさぶりました。
この問題に対して、民主・社大・人民・無所属の与野党ともに共同歩調で立法院定例議会で布令109号廃止を可決しました。しかし、米国民政府は、小禄・伊佐浜・伊江島で農耕にたよって生計をたてていた農民たちの悲痛な叫びを無視し、ブルドーザーの前に座り込む人々に銃剣を突き付け田畑を敷きならしていったのです。早朝から現場に駆け付けた比嘉主席は「米軍の連中は、あんなことをするのか。胸を突きさされる思いで非常に残念」と憤っていたと伝えられています。行政府・立法院・市町村長会・軍用地連合会は四者協議会を結成し《土地四原則》を掲げ米軍への抵抗を示し、その炎は島ぐるみの闘いに広がりました。
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12.主席として苦悩の中で
解説文
1953年から始まった土地接収は与座・親慶原・渡具知・具志と続き、翌年には伊佐浜・伊江島と基地を拡張していきました。米国民政府は、56年に調査団がまとめたプライス勧告を発表、米国を民主主義の国として信頼し大多数の住民の願いに耳を傾けると信じていた人たちまでが失望したのです。9月に各団体が参加して「沖縄土地を守る会総連合」が結成され代表団を日本政府に送りました。
比嘉主席は苦悩の日々を過ごし、疲労の様相は隠せず、10月24日は体調が悪かったために早めに主席公舎から帰りました。公舎に戻り、池の鯉に餌を与え普段とかわらず食事をすませ、書斎で読書などしていました。10時ごろ「気分がすぐれない」といって胸元を押さえ12時ごろから苦しみだし、25日の午前3時半、帰らぬ人となりました。急性の狭心症と診断され、比嘉秀平は55歳の生涯を閉じました。遺言も遺書もなく主席として重責を担った苦悩は、その突然の死がすべてを語るのみとなりました。比嘉主席の急死は県民に強い衝撃と深い悲しみを残し、語る言葉も見つかりませんでした。
幼少に右手を失い、努力して学問を積み上げ、身体を鍛練し、自己に厳しく、戦前は教育者として・戦後は政治家として沖縄のために働きつづけました。「自分のことは後世の歴史が物を言ってくれるはずだ」と語り、嵐に翻弄される船の船長として目一杯、沖縄のために働いたのです。



































