舞台では、音楽関連の催し物を中心にバラエティーショーなどが開催される。村内の研究家、門下生による琉球古典芸能も披露され華やかな出し物で賑わうほか、多彩な展示部門にも人気がある。会場:文化センター実施:...
昔から読谷の表玄関として、親しまれてきたのが比謝橋。琉球王国時代は、中山(首里を中心とする勢力圏)と北山(国頭地方)を結ぶ重要な橋だった。その形状は、石造五連アーチ。戦後、米軍による道路拡張工事により...
イモ作りに精を出す働き者のおじー、ひょうきん者で三線の名手のおとー、器量良しの紅イモ娘ら紅イモ一家が、楽しく読谷村を紹介します。
遥かな時を超えて、人々が守り育ててきた心。未来への夢と憧れ。抗し難い時代の力に揺れ動く小さ な魂。そして、人間の本性に基づく根源的な精神の発露、「喜怒哀楽」。時の流れが創造した歴史ロ マンの扉を、4つ...
読谷村民は平和の郷づくりをめざしアメリカ軍基地撤去にむけての闘いを進めてきました。村民の粘り強い闘いにも関わらず返還されていない基地が村の45%をしめています。かつてパラシュート降下訓練に伴う事故で村...
読谷村は沖縄本島中部の西海岸にあり海に突き出た半島状の地形をなしています。東側は海抜200mの読谷山岳を頂点とする丘陵山地で、西側は約130mの座喜味城跡を頂点に石灰岩台地が広がっています。自然の海岸...
沖縄本島が米軍に空襲されるようになると、住民たちは沖縄古来の亀甲墓や自然壕(ガマ)に避難していました。米軍が上陸する間際になって、ようやく多くの人々が国頭(くにがみ)に避難しましたが、村にとどまった村...
1945年3月26日の慶良間上陸についで、4月1日米軍は本島中部西海岸から上陸しました。戦力で圧倒的に劣る日本軍は、上陸地点での本格的な戦闘をさけました。第32軍は、軍司令部のある首里を中心とした複郭...
戦前の読谷村は、「読谷山村」と呼ばれており、古くからサトウキビとサツマイモの一大産地でした。農業のかたわら漁業も行われており、特に宇座は鰹漁が盛んな地域として知られていました。比謝矼は、古くから交通の...
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読谷バーチャル平和資料館へようこそ読谷バーチャル平和資料館では読谷村の戦争体験と、平和への祈りを未来へ継承します。過去を学び、記憶を次世代へつなぎ、平和な未来を築くためのオンライン資料館です。
戦後沖縄は行政的に沖縄本島・宮古・八重山・奄美大島の四群島からなっていて、それぞれに知事がいました。1950年に知事は公選制になり、52年の3月まで続きました。4月から四群島が合併し琉球政府となり、主...
東シナ海を吹き抜ける北風と荒波のおしよせる海岸近くに瀬名波の集落があります。その北寄りに100年以上前首里あたりから移住してきた人たちが川平屋取(カビラヤードゥイ)と呼ばれる集落を形成していました。屋...
湿った梅雨空がまだつづく1901(明治34)年の6月7日明けがた、読谷山村楚辺の比嘉秀實・ウシに三人目の男子が誕生、名を<秀平>と命名しました。楚辺はスビクラガー(楚辺暗川)を水源地としてサツマイモや...
1945年アメリカ軍は沖縄本島に上陸しました。上陸後すぐに日本本土攻略のための基地の建設にとりかかりました。1950年に朝鮮戦争が始まると、沖縄の基地は重要視され新たな基地の建設のための土地の接収が始...
読谷村では戦後村民と行政が一体となって基地の返還のための闘いをすすめてきました。その努力の結果戦後95%もあったアメリカ軍の基地は2002年には45%にまで減りました。しかし、依然として村の半分は基地...
読谷村では23の行政区(字)を大きく6つの地域にわけています。残波岬という景勝地をもち、コミュニティの結束が強く伝統芸能を多く伝えている北部地区、戦後いち早く帰村が許可され役場農協などが立地し長らく村...
読谷村は敗戦後の困難な時代を多くの先達の英知と努力によって、復興と再建に取り組んできました。この間、自立的な精神こそが村民に自信と勇気を与え、村づくりを推進する真の力であることを学びました。多くのアメ...
文化の村づくりの始まりは村立の歴史・民俗資料館の建設でした。読谷村の海岸付近で縄文時代の遺跡が発掘され、古代から人の暮らしがつづいていることを展示内容は語っています。戦争で失ったものもたくさんあります...
東シナ海を見渡せる座喜味城跡は村の高台に位置し、読谷村の歴史を見守りつづけてきました。戦後、アメリカ軍のレーダー基地として接収されていましたが、本土復帰後に全面返還されました。城郭は雑草が繁茂し、石垣...